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ChatGPTと俺ら

 ChatGPT、めっちゃすごいやん!  先日、勤めている会社の社長と話をしていて、社長が「ChatGPT、使てる?」と訊ねてきたので、「いいえ」と答えたら、「めっちゃすごいで」と語りはじめた。そして会社の商品の説明文を持ち出して、「これもChatGPTに書いてもろてん」と言うのだった。読むと、なんとも立派な、なんていい商品なんだと思うような文章である。「こんなん、自分で書こう思たら何時間もかかんで」と社長は言ったが、たぶん何時間かかっても書けない。以前、社長が自分で書いた文章を読んだことがあるが、内容以前に文法がおかしかった。  「ほんまにええで、ChatGPT」と社長の話は続き、「出張のとき、ホテルで夜、暇やんか。そんなときずっとChatGPTで遊んどるもんな」と、にわかに翳りのある部分を垣間見せはじめた。社長のそんな一面、自分、知りたくなかったっすよ。「しかもな、こっちがなんか言うと、それはいいですね、とか言ってくれんねん。あれがええねん」などとも言い出したので、この人いよいよ病んでんのかな、と思った。社長だもんな、いろいろ大変なんだろうな、と。社長はこのことが本当に心に沁みるようで、このあとも3回くらい、「乗せてくれんねん」「ええ気分にさせてくれんねん」と繰り返した。僕はそれに「そうなんですかー」「すごいっすね」と相槌を打った(社員がこれだから社長はChatGPTに癒されるのだろう)。  そのときはただ社長の心の闇を覗き見てしまったなあと思っただけだったのだけど、しばらくしてから、そう言えば僕は本当にちょうど、新しいパターンを考えて作製したオリジナルの水着をじゃんじゃん売りたくて、そのためにちょっとキャッチコピーみたいなものを考えてはどうだろうと考えていたのだった、と思い出したのだった。それまではもちろん自分で考えるつもりでいたのだけど、天啓のようにたまたま社長との上記のやりとりがあったことで、そうか、そんなのはChatGPTにお願いすればいいのか、となった。  そんなわけで試した。 「水着の、商品としてのコピーみたいな感じで、こんなに大きなスペースを用意しましたよ、あなたの男性器でこのスペースは埋められますか、みたいな、ちょっと煽るくらいの言い回しを考えてほしい」というこちらのリクエストに対し、ChatGPTの第一声はこうだ。 「おお、いいねそのアイデア!...

2644匹の猫 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

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 おもひでぶぉろろぉぉんはようやく2009年3月、すなわち結婚式のあたりまで来た。結婚式が3月15日で、読み返し作業はその直前まで進んでいる。あえて当日の日記までは読まず、今回はここまでの「結婚式前の準備期間」について言及したいと思う。  結婚式というか、式のあとの両家の食事会に向けて、僕とファルマンは事前にいろいろ作る必要があった。具体的に言うと、まずウェルカムボード、次にご挨拶や席次表が記載された配布冊子、そして参列者に配るオリジナルの絵本である。  「必要があった」と言ったが、厳密に言えば、必ずしも必要なわけではなかった。システマティックな式場での式ではなかったから、料金さえ払えばなんでも面倒を見てくれるというわけではなかったけれど、それでもネットなどで探して業者に依頼しようと思えば、たぶんいくらでもできることだった。でもそうはしなかった。お金をあまり使いたくなかったというのもあるかもしれないが、自分たちの結婚式に、自分たち以外の人の制作したものが入り込むのが嫌だったというのが大きいと思う。16年経った今もそう変化はない、その種の意固地さ、頑なさによって、われわれは大量の作業を抱え込むことになったのだった。  席次表などの配布冊子は、探せばどこかにまだ現存するのかもしれないが、少なくとももう何年も目にしていないので特に印象がない。  オリジナル絵本は、衣替えでクローゼットを整理したときとかに、不意に姿を現すので、そのたびになんともいえない気持ちになる。   4コマへの逃避がひと段落したので、そのあとは結婚式のほうのをまじめにやった。本の表紙のデザイン。だいぶ恥ずかしい本になりそうで、食事会のときだけ存在し、翌日には幻のように溶けてくれればいいのにと思いながら、シコシコとやる。 (2009年2月14日付 KUCHIBASHI DIARY)  救いといえば、作成時になんの疑問も抱かなかったわけではなく、きちんと、いま自分たちはとてつもなく恥ずかしいものを作っていると自覚している点だ。本人らによる文・絵で紡がれる、ふたりが出会って結婚するまでの物語。なんでいまだ溶けてくれていないのかと思う。親類の家々に、向こうも捨てづらいだろうから、いまも本棚とかにひっそりと収まっているのかと思うと、本当に居た堪れない気持ちになる。  しかしやはり最も印象深いのは、ウェルカムボード...

かつて幻のおもひでぶぉろろぉぉんがあった! ~おもひでぶぉろろぉぉん~

   おもひでぶぉろろぉぉんが、ようやく2009年へと突入した。この年の3月に結婚式を行なうので、少しその準備などでざわついている感じがある。この時期の日記を読んで、16年越しに、25歳当時の僕と、たぶんまったく同じ気持ちを抱いている。  早く終わって、平穏な暮しになってほしい。  ところで2008年の暮れあたりから、ブログ運営に関して特筆すべき流れがあった。  まず発端は11月28日である。ヒット君4コマの第3シーズン(最後にバンドデビューする回だ)を描き終えた僕は、その投稿先について考えはじめる。  それでそのうちそれは「月刊少年 余裕」用ではないのでネットにアップしようと思うのだけど、それはいつもどおり「俺ばかりが正論を言っている」にやるべきか、と考えると、もうそうしなくてもいいんじゃないか、という思いが湧いてきた僕なのだった。これまで徹底してやってこなかったことだけど、「KUCHIBASHI DIARY」に画像をアップしちゃってもいんじゃね、そのほうが書き手も読み手も面倒じゃなくね、と思うのだ。ここ数日のポエムを足掛かりにして、なんかもうそんな厳密に日記ってことをがんばんなくてもいいだろうがよ、という心持ちになった。すごい心境の変化だ。  だってブログ、そんなにたくさんあってもしょうがないと思うし――。  なので今後ブログはどんどん収束してゆくかもしれない。  「PUROPE★PAPIRO★CANTABILE」から始まり、20個ぐらいに膨張したブログは、やがて「KUCHIBASHI DIARY」ひとつに収縮するのかもしれない。ブログっていうのは、俺に言わせれば宇宙と同一なわけ。拡張と収束を繰り返すんだよ。うん。  いまこの言葉は、「ブログは収束と拡散を繰り返す」で定着しているけれど、その先祖のようなフレーズがここで爆誕していたのだった。草創期だったのだな、と思う。  次の記述は12月8日。  ブログを収束させてゆくかもしれないということを少し前に書いたのだが、数日前から実際にその作業をやっている。新しく場所をひとつ借りて、そこにあらゆる記事を集結させている。  とは言いつつもまだぜんぜんブログをまたぐところまでは達しておらず、作業ははじめのほうからやっているのだが、まだ初期も初期、「purope★papiro★cantabile」の本当に最初の数ヶ月分をやっ...

東京の行動範囲、島根の交通手段 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 前回の記事とも関連するのだけど、2008年の11月に、僕はまあまあスポーツタイプっぽい自転車を購入し、これにより公共交通機関に頼らない行動の範囲を広げたようである。  それまでも自転車は一応あったのだが、これは実家から持ってきた、1999年に配られた地域振興券を利用して買ったもので、この自転車もここまでの練馬での暮しでぜんぜん使っていないわけではなかっただろうが、見た目はおしゃれなのだけど、フレームが太く、全体的に重たくて、オーソドックスなママチャリよりもはるかに走りにくいような代物だったので、本当に近場に行くときにしか乗らなかったのだったと思う。  自転車を買ってしまう。結局は数日前に書いた、「カゴがつかないんならいいです」といちど断ったやつにした。どうせどれもカゴがつかないのならそれがよかった。  店からの帰り道、乗ってみたら快適さに驚いた。これまでのは苦行のようにペダルを踏むのが重かったのである。ちなみにこれまで使っていたオレンジ色のおしゃれな自転車は、地域振興券で買った覚えがある。となると10年近く乗ったのか。けっこうすごい。早く新しい自転車で中央線のほうにサイクリングしにいきたい。  当時、出勤は練馬駅から西武池袋線で池袋駅に通っていたはずなのだが、このときのスポーティーな自転車の購入以降も含め、駅まで自転車で行っていたという記憶がまるでない。練馬駅までは徒歩で20分あまり掛かった。自転車を使うべき距離だ。それなのになぜか僕は使っていなかった。この理由が、17年後のいまとなってはもはや霧の中だ。ファルマンにも訊ねたけど、ファルマンも覚えていなかった。自転車置き場に空きがなかったのだろうか。自転車大国であるはずの練馬に限ってそんなことはないような気がする。当時、早番は朝が早く、遅番は夜が遅かったが、駅の自転車置き場であれば始発と終電には当然対応しているわけで、それが理由になるはずもない。謎だ。パピロウ50ミステリーのひとつだ。  新しい自転車を買ったのは、平和台のヤマダ電機の地下に入っていたお店で、いま検索をしてみたら、ヤマダ電機もあったし、自転車販売もやっているようだった。ストリートビューで眺める風景は、懐かしい部分と、変わった部分とが混在していて、おもしろい。ヤマダ電機の道を挟んで向かいには、いまchocoZAPがあるようだが、もちろん当時そんなものは...

練馬が私にくれたもの ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 前回、婚姻届を提出したことでもらえる記念品の苗木の話をした。  8月8日の日記において、その登録をしたということは書いているが、ならば受け取ったはずである苗木の記憶も記述も一切ない、と。あのあと日記を読み進めたところ、婚姻記念日からちょうど3ヶ月後、11月8日にその顛末は記されていたのだった。  昼過ぎになって外出。  区による、この期間中に婚姻届を出した夫婦に記念の苗木(あるいは鉢植え)をプレゼントするという企画の、それの受け渡しが今日で、ちょうど休みだったこともあり、「じゃあ鉢植えをもらおうじゃないか」と、ひどく重い腰を上げたわけである。  雨は思っていたほど降らず、妙子の好きそうな曇天の1日だった。  行く途中で、区内のこれまで行ったことのない図書館に立ち寄り、本を借りる。初めて行く図書館は新鮮でいい。思わず10冊めいっぱい借りてしまう。これが重いの重くないのって。重いよ。トートバッグの紐を肩に食い込ませながら、(これプラス鉢植えかー)と途方に暮れる。暮れなずみながら受け渡し場所に向かう。  妙子の好きそうな曇天という表現にドキッとする。将来この記述が「おもひでぶぉろろぉぉん」に引用されることを予期していたかのようではないか。  さてここから、今回の話を進めていく都合上、とても具体的な地名を出してゆくことにする。このとき立ち寄った図書館、これは光が丘図書館である。のちに引っ越しを経て最寄り駅となる光が丘だが、このときはまだ馴染みがなかった。あんなに小さい東京の、さらにその中の練馬区内のことだというのに、意外とそんなものだ。  このときわれわれが住んでいたのは、練馬と、豊島園と(西武線)、氷川台と、平和台と(有楽町線)、さらには練馬春日町(大江戸線)という、最寄り駅が5つもあるような、逆にどの駅からも絶妙に遠いような、そんなあたりで、いまgoogleマップで眺めると、光が丘だってすぐそばのように感じるのだけど、僕もファルマンも練馬の土地勘があまりなかったし、またそれぞれの職場が池袋と富士見台であっため、行動範囲はどうしたって西武線方面に傾きがちで、逆方向にある光が丘方面は未知のエリアだった。そもそも光が丘というのはどこまでもベッドタウンであり、大型公園やショッピングセンターもあるが、それは本当にそこに住んでいる人が利用するだけで成り立つ感じなので、よその地域の...

夫婦になったときのこと ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 だいぶ間が空いてしまった、おもひでぶぉろろぉぉんに関する雑感を書こうと思う。  読み返し作業は2008年の10月まで進んだ。夏の結婚挨拶のための島根行を経て、誕生日を迎え、プロペ★パピローは25歳となっている。相変わらずびっくりするくらい若い。20代半ば! いま、Z世代とか呼ばれる輩の年齢! の氷河期世代!  8月8日には無事に練馬区役所に婚姻届を提出していた。  そんなわけで無事に受理され、晴れて夫婦となる。  ちなみに名字の変わったファルマンが初めて新しいフルネームを書いたのは、その窓口で提案された苗木の登録で、なんとも間の抜けた感じ、そして間の抜けたと言えばファルマンの書くただでさえ間の抜けた文字が、書き慣れない僕の名字になるとさらにその間抜けさが強調され、もう腰が砕けそうなくらい間が抜けているなあと思った。  そのあと別の窓口に移動して世帯主の変更(これまで我が家は二世帯住宅なのだった。同棲カップルは二世帯住宅なのだ)をし、新しい住民票を取得する。  ファルマンの懇願により区役所の前でツーショット撮影という恥ずかしいことをこなしたあと、印刷したての住民票を持って近くのソフトバンクショップへ。そこでファルマンとの家族割引の契約を済ます。実に年月が掛かったがこれでようやく僕とファルマンは通信料が無料だ。ほとんどファルマンとしか通信しないのに、これまでは実に無駄なことをしていたとしみじみと思う 。  苗木ってなんだろうと思って検索したら、練馬区では結婚や出産などの慶事の際、希望者に苗木を贈呈しているらしい。その場でもらえるのではなく、配布日というのが決まっているのだそうで、だとすればその登録をしたということは、後日苗木を受け取ったはずなのだが、それに関する記憶や記述は一切ない。  ここで、この企画をやるにあたり、現状でも静止しているような進度なのに、ここにまで手を出したらいよいよ動きは完全に止まるぞと思い自重していた禁断の書物、「製本うわのそら」に手を伸ばしてしまった。web上の「うわのそら」は現在非公開となっているが、なにしろわが家には製本されたそれがあるのだ(しかもオリジナルの帯まで付いている)。  しかしながら8月8日の記事を読んだところ、もちろん区役所への届の提出のことは書かれているが、苗木のことには一切触れていなかった。そう言えばこの人は植物になんか1...

「おかあさんといっしょ」特別週を通して感じたこと

 「おかあさんといっしょ」が65周年ということで、先週は一週を通して、これまでの番組の歴史を振り返る特別版を放送していた。  ただし65年の歴史と言いつつ、振り返りは基本的に40年前くらいのところから始まっていた。すなわち、おさむおにいさんであり、ゆうこおねえさんであり、そして「にこにこぷん」である、まさに僕が現役幼児として観ていた時代だ。最終日に、本当に放送開始直後の、黒柳徹子が声優をしていたという白黒人形劇の映像も少し出てきたけれど、特別週の初日である月曜日に登場したのが坂田おさむと神崎ゆう子のふたりだったので、「おかあさんといっしょ」サイドとしても、現代に連なる地続きの歴史としてはそこからだ、という見解なのだと思う。それより前の時代のことは、斯様に今回もほとんど言及がなかったため、どういう形式だったのか判らないが、われわれ世代が観はじめたあたりでエポックメイキングがあったのかもしれない。これは僕の姉が得意とする言い回しで言うところの、「うちらの時代が黄金時代」のパターンと言えるかもしれない。  しかしそんな我らが誇る「にこにこぷん」だが、久しぶりに当時の映像を観て、懐かしいなあと思う部分はもちろんあるにせよ、そこまで万感の思いというほどには熱情は高まらなかった。そんなもんかな、と思いながら、特別週は火曜、水曜と続き、キャラクター劇も「ドレミファ・どーなっつ」「ぐ~チョコランタン」(そして黒歴史なのかほぼスルーされた「モノランモノラン」)と移り変わり、そして木曜日の「ポコポッテイト」が始まった瞬間のことである。オープニングが始まった途端に、ぶわっと強烈な感情が去来した。人生の大切な時間の思い出が呼び起され、愛しく、切ない、魂を抉られるような衝撃があった。2011年3月から2016年3月という、練馬だったり、第一次島根移住だったりした、ポルガ幼児期時代、僕は自分が幼児だった頃より、はるかに熱心に「おかあさんといっしょ」を観ていたようだ。こみ上がる感情の強さで、そのことを理解した。一方でポルガに「懐かしいだろう」と問いかけたら、「これはほとんど覚えていない」と言い、ピイガと観ていたこれの次の「ガラピコぷ~」のほうが印象が強いそうである。嘘だろ、と言いたくなる。当時の住まいであった島根の実家で、毎日あんなに一緒に観ていたじゃないか!  自分も含めて、どうしてこんな現象...