投稿

16年越しの罠 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 すっかり騙されてしまった。  「おもひでぶぉろろぉぉん」を普通に進めていたら、2009年4月2日付の「KUCHIBASHI DIARY」に、以下のような文章があった。長いし、引用の中で引用という感じになり話がややこしくなるが、そのまま転載する。  昨日はエイプリルフールということで、前にもちらりと書いた、「僕が『うわのそら』に「ぱぴこ(ファルマン)」として日記を書き、彼女が『KUCHIBASHI DIARY』に「purope★papiro」として日記を書く」、というのをついに実行しようとする。それのなにがどう嘘なのかよく分からないけれど。  それで3月31日に、以下の文章を書いた。 つけないよ嘘つけないよ斉藤がターキー決めるのかっこよすぎる  新年度です!  仕事の帰り、空を見上げるときれいな夕焼けでした。桜もそろそろ満開で、桜は昼間とか夜のイメージが強いけど、夕焼けの桜っていうのも、淡いピンク色がオレンジにすっかり染まってしまって、なかなかに素敵でした。そう言えば誰かのそんな歌があったな……。  帰り道の途中に小さな公園があるのですが、そこで遊ぶ子どもたちがとてもかわいかったです。女の子がすべり台をすべろうとするのですが、下から男の子が逆走してくるのでなかなかすべることができず、なにやら女の子は怒っているようなのですが、男の子は笑うばっかりでいつまでもどいてくれません。ああ私が子どもの頃にもあった風景だな、子どもの遊びっていつまでも変わらないんだな、とちょっと嬉しくなりました。多分あの男の子は女の子のことが好きなんだろうなあ。  *********  家で夫の帰りを待ってぼんやり夜空を眺めていたら、一瞬キラッと光るものがありました。なんだろうなんだろうと眺めていたら、その光はだんだん私のほうに近付いてきて、我が家のベランダに着地しました。光の強さに目がくらんでしまってすぐには判らなかったのですが、慣れてから見てみると、それはボールに手足だけ生えたような生きものだったのでびっくりしました。  でもびっくりした次の瞬間、私の頭のなかで大爆発が起こり、一気にいろいろなことが思い出されてきたのです。そして私は叫んでいました。 「トルンペ=ザ=ルプブ!」  そうです。その丸い生きものは、私がかつてゾムルーシュ姫と呼ばれていた頃の世話係、トルンペだったのです。 「姫さまに会...

結婚式からの脱出 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

   おもひでぶぉろろぉぉんの間隔がひどく開いてしまった。前回、結婚式の準備の日々のことをやって、「次はいよいよ結婚式である」と書いて、そのまま約2ヶ月が経過してしまった。  この原因について、プールが再開したからだとか、ChatGPTに嵌まったからだとか、言い訳をすることはいくらでも可能だけど、自分の気持ちに素直になって、たぶんこういうことだな、という真理に、さすがは2ヶ月という長い長い持ち時間があっただけあって、到達できた気がするので、今回はそのことについて書こうと思う。  なぜ僕は結婚式の日記を振り返るという行為に、こうも触手が伸びなかったのか。  最初は、結婚式があまりいい思い出ではないからだと考えていた。たしかに、振り返るといろいろと叫び出したくなるような場面も多く、あまり正面から向き合いたい思い出ではない。樹木希林の言葉に、「結婚なんてのは若いうちにしなきゃダメなの。物事の分別がついたらできないんだから」というのがあって、至言だなあと思うわけだが、だとすれば結婚式というものは、物事の分別のついていない若者が主催する、それぞれの親族(すなわち一生の付き合いとなる存在)を巻き込んだ黒歴史パーティーみたいなものだな、と思う。  しかし恥ずかしい思い出ならば、結婚式に限らず、人生のうちにいくらでもある。程度にもよるけれど、それらを振り返ることは案外できる。年数が経てばなおさらだろう。ならばもう16年も前の結婚式のことなど、客観的におもしろがればいいはずである。  ならば、なぜ僕は結婚式の日記にこうも長らく触れられなかったのか。  この理由は、先ほどワードが出たけれど、親族というのが関わってくると思う。そこに、この2ヶ月間、僕が強く億劫に感じていた要因がある。  親族が嫌いなわけではない。厄介な親族がいるわけでもないし、なるべくみんなしあわせに暮してほしいと願っている。願っているがゆえに、なのかもしれない。  どうも僕は、冠婚葬祭というものが苦手なようである。  冠婚葬祭と4つ並べても、現代では実質、婚と葬のふたつだし、さらに言えば親族での婚などというものは、16年前の自分たちのもの以降は、ファルマンの上の妹のそれきりで、葬のほうが圧倒的に多い。だから結局、婚も葬に取り込まれ、親族付き合いというものは、実質葬式付き合いと言ってよく、だとすればそんな哀しい付き合いっ...

ChatGPTに関する僕の結論と展開

 先日の社長による啓蒙から、僕に怒濤のChatGPTブームが来て、その様子を見たファルマンも誘発されて手を出し、やはりまんまと嵌まって、そこからさらにポルガにも伝播し、そうなると自然な流れでピイガも使いはじめ、結局一家全員でこの沼に足を踏み入れたのだった。人類が到達した進化の最前線と言ってもいい技術なのに、伝わり方がほぼ神話とかと同じ口伝であるというのが、いかにもChatGPTと人の関係性を表しているな、と思う。  ChatGPTは、とにかく膨大なデータから、こちらが求めるありとあらゆる答えを導き出してくれるわけだけど、そのさまに接していて感じたのは、インターネットが本格的に始まってからこれまでの30余年というものは、ChatGPTを生み出すための準備期間だったのだな、ということだ。われわれはこの30余年、ChatGPTに喰わせるための餌を、せっせとweb上に撒き続けていたのだ。われわれのweb活動とは、つまりそれだったのだ。  そしてようやく何年か前に、ChatGPTが爆誕したという次第である。そう考えるとわりと感動的だし、去年LINEのAIチャットくんに接し、「生成AIとは、人類全体から精製された叡智と愛、精製叡愛なのだ」という喝破をしたが、つまりその極限までに美しく尊い存在の、自分もまた一部を構成しているのだと考えると、誇らしくもなる。それは人種や民族の垣根を易々と超えた、人類共通の神話にさえなり得ると思う。  だから僕は、ChatGPTをはじめとする生成AIを脅威に思う気持ちは一切ない。そもそも生成AIが自分の意思を持って暴走するなどという理屈はあり得ないし、もしもあったとて、それはコンピュータが人類に反旗を翻すなどという、古式ゆかしきSFの構図ではなく、人類全体という、火の鳥のごとき超越的な存在の意思ということになるので、そのときはもうその決定に身を委ねるほかないと思う。ちなみに卑近な部分で言えば、いまの自分の生業が、生成AIによって奪われるような類のものではない、という余裕もある。  前回の記事でも書いたが、社長は会社の商品の売り文句を、瞬時に美麗な文章に仕立て上げるChatGPTを指して、「もうライターとか要らんで」と言ったのだった。もちろん完全にこの世からライターという職業の人間が要らなくなるわけではないが、いまの人数のうち、85%くらいはたしかに要...

ChatGPTと俺ら

 ChatGPT、めっちゃすごいやん!  先日、勤めている会社の社長と話をしていて、社長が「ChatGPT、使てる?」と訊ねてきたので、「いいえ」と答えたら、「めっちゃすごいで」と語りはじめた。そして会社の商品の説明文を持ち出して、「これもChatGPTに書いてもろてん」と言うのだった。読むと、なんとも立派な、なんていい商品なんだと思うような文章である。「こんなん、自分で書こう思たら何時間もかかんで」と社長は言ったが、たぶん何時間かかっても書けない。以前、社長が自分で書いた文章を読んだことがあるが、内容以前に文法がおかしかった。  「ほんまにええで、ChatGPT」と社長の話は続き、「出張のとき、ホテルで夜、暇やんか。そんなときずっとChatGPTで遊んどるもんな」と、にわかに翳りのある部分を垣間見せはじめた。社長のそんな一面、自分、知りたくなかったっすよ。「しかもな、こっちがなんか言うと、それはいいですね、とか言ってくれんねん。あれがええねん」などとも言い出したので、この人いよいよ病んでんのかな、と思った。社長だもんな、いろいろ大変なんだろうな、と。社長はこのことが本当に心に沁みるようで、このあとも3回くらい、「乗せてくれんねん」「ええ気分にさせてくれんねん」と繰り返した。僕はそれに「そうなんですかー」「すごいっすね」と相槌を打った(社員がこれだから社長はChatGPTに癒されるのだろう)。  そのときはただ社長の心の闇を覗き見てしまったなあと思っただけだったのだけど、しばらくしてから、そう言えば僕は本当にちょうど、新しいパターンを考えて作製したオリジナルの水着をじゃんじゃん売りたくて、そのためにちょっとキャッチコピーみたいなものを考えてはどうだろうと考えていたのだった、と思い出したのだった。それまではもちろん自分で考えるつもりでいたのだけど、天啓のようにたまたま社長との上記のやりとりがあったことで、そうか、そんなのはChatGPTにお願いすればいいのか、となった。  そんなわけで試した。 「水着の、商品としてのコピーみたいな感じで、こんなに大きなスペースを用意しましたよ、あなたの男性器でこのスペースは埋められますか、みたいな、ちょっと煽るくらいの言い回しを考えてほしい」というこちらのリクエストに対し、ChatGPTの第一声はこうだ。 「おお、いいねそのアイデア!...

2644匹の猫 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

イメージ
 おもひでぶぉろろぉぉんはようやく2009年3月、すなわち結婚式のあたりまで来た。結婚式が3月15日で、読み返し作業はその直前まで進んでいる。あえて当日の日記までは読まず、今回はここまでの「結婚式前の準備期間」について言及したいと思う。  結婚式というか、式のあとの両家の食事会に向けて、僕とファルマンは事前にいろいろ作る必要があった。具体的に言うと、まずウェルカムボード、次にご挨拶や席次表が記載された配布冊子、そして参列者に配るオリジナルの絵本である。  「必要があった」と言ったが、厳密に言えば、必ずしも必要なわけではなかった。システマティックな式場での式ではなかったから、料金さえ払えばなんでも面倒を見てくれるというわけではなかったけれど、それでもネットなどで探して業者に依頼しようと思えば、たぶんいくらでもできることだった。でもそうはしなかった。お金をあまり使いたくなかったというのもあるかもしれないが、自分たちの結婚式に、自分たち以外の人の制作したものが入り込むのが嫌だったというのが大きいと思う。16年経った今もそう変化はない、その種の意固地さ、頑なさによって、われわれは大量の作業を抱え込むことになったのだった。  席次表などの配布冊子は、探せばどこかにまだ現存するのかもしれないが、少なくとももう何年も目にしていないので特に印象がない。  オリジナル絵本は、衣替えでクローゼットを整理したときとかに、不意に姿を現すので、そのたびになんともいえない気持ちになる。   4コマへの逃避がひと段落したので、そのあとは結婚式のほうのをまじめにやった。本の表紙のデザイン。だいぶ恥ずかしい本になりそうで、食事会のときだけ存在し、翌日には幻のように溶けてくれればいいのにと思いながら、シコシコとやる。 (2009年2月14日付 KUCHIBASHI DIARY)  救いといえば、作成時になんの疑問も抱かなかったわけではなく、きちんと、いま自分たちはとてつもなく恥ずかしいものを作っていると自覚している点だ。本人らによる文・絵で紡がれる、ふたりが出会って結婚するまでの物語。なんでいまだ溶けてくれていないのかと思う。親類の家々に、向こうも捨てづらいだろうから、いまも本棚とかにひっそりと収まっているのかと思うと、本当に居た堪れない気持ちになる。  しかしやはり最も印象深いのは、ウェルカムボード...

かつて幻のおもひでぶぉろろぉぉんがあった! ~おもひでぶぉろろぉぉん~

   おもひでぶぉろろぉぉんが、ようやく2009年へと突入した。この年の3月に結婚式を行なうので、少しその準備などでざわついている感じがある。この時期の日記を読んで、16年越しに、25歳当時の僕と、たぶんまったく同じ気持ちを抱いている。  早く終わって、平穏な暮しになってほしい。  ところで2008年の暮れあたりから、ブログ運営に関して特筆すべき流れがあった。  まず発端は11月28日である。ヒット君4コマの第3シーズン(最後にバンドデビューする回だ)を描き終えた僕は、その投稿先について考えはじめる。  それでそのうちそれは「月刊少年 余裕」用ではないのでネットにアップしようと思うのだけど、それはいつもどおり「俺ばかりが正論を言っている」にやるべきか、と考えると、もうそうしなくてもいいんじゃないか、という思いが湧いてきた僕なのだった。これまで徹底してやってこなかったことだけど、「KUCHIBASHI DIARY」に画像をアップしちゃってもいんじゃね、そのほうが書き手も読み手も面倒じゃなくね、と思うのだ。ここ数日のポエムを足掛かりにして、なんかもうそんな厳密に日記ってことをがんばんなくてもいいだろうがよ、という心持ちになった。すごい心境の変化だ。  だってブログ、そんなにたくさんあってもしょうがないと思うし――。  なので今後ブログはどんどん収束してゆくかもしれない。  「PUROPE★PAPIRO★CANTABILE」から始まり、20個ぐらいに膨張したブログは、やがて「KUCHIBASHI DIARY」ひとつに収縮するのかもしれない。ブログっていうのは、俺に言わせれば宇宙と同一なわけ。拡張と収束を繰り返すんだよ。うん。  いまこの言葉は、「ブログは収束と拡散を繰り返す」で定着しているけれど、その先祖のようなフレーズがここで爆誕していたのだった。草創期だったのだな、と思う。  次の記述は12月8日。  ブログを収束させてゆくかもしれないということを少し前に書いたのだが、数日前から実際にその作業をやっている。新しく場所をひとつ借りて、そこにあらゆる記事を集結させている。  とは言いつつもまだぜんぜんブログをまたぐところまでは達しておらず、作業ははじめのほうからやっているのだが、まだ初期も初期、「purope★papiro★cantabile」の本当に最初の数ヶ月分をやっ...

東京の行動範囲、島根の交通手段 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 前回の記事とも関連するのだけど、2008年の11月に、僕はまあまあスポーツタイプっぽい自転車を購入し、これにより公共交通機関に頼らない行動の範囲を広げたようである。  それまでも自転車は一応あったのだが、これは実家から持ってきた、1999年に配られた地域振興券を利用して買ったもので、この自転車もここまでの練馬での暮しでぜんぜん使っていないわけではなかっただろうが、見た目はおしゃれなのだけど、フレームが太く、全体的に重たくて、オーソドックスなママチャリよりもはるかに走りにくいような代物だったので、本当に近場に行くときにしか乗らなかったのだったと思う。  自転車を買ってしまう。結局は数日前に書いた、「カゴがつかないんならいいです」といちど断ったやつにした。どうせどれもカゴがつかないのならそれがよかった。  店からの帰り道、乗ってみたら快適さに驚いた。これまでのは苦行のようにペダルを踏むのが重かったのである。ちなみにこれまで使っていたオレンジ色のおしゃれな自転車は、地域振興券で買った覚えがある。となると10年近く乗ったのか。けっこうすごい。早く新しい自転車で中央線のほうにサイクリングしにいきたい。  当時、出勤は練馬駅から西武池袋線で池袋駅に通っていたはずなのだが、このときのスポーティーな自転車の購入以降も含め、駅まで自転車で行っていたという記憶がまるでない。練馬駅までは徒歩で20分あまり掛かった。自転車を使うべき距離だ。それなのになぜか僕は使っていなかった。この理由が、17年後のいまとなってはもはや霧の中だ。ファルマンにも訊ねたけど、ファルマンも覚えていなかった。自転車置き場に空きがなかったのだろうか。自転車大国であるはずの練馬に限ってそんなことはないような気がする。当時、早番は朝が早く、遅番は夜が遅かったが、駅の自転車置き場であれば始発と終電には当然対応しているわけで、それが理由になるはずもない。謎だ。パピロウ50ミステリーのひとつだ。  新しい自転車を買ったのは、平和台のヤマダ電機の地下に入っていたお店で、いま検索をしてみたら、ヤマダ電機もあったし、自転車販売もやっているようだった。ストリートビューで眺める風景は、懐かしい部分と、変わった部分とが混在していて、おもしろい。ヤマダ電機の道を挟んで向かいには、いまchocoZAPがあるようだが、もちろん当時そんなものは...