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夫婦になったときのこと ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 だいぶ間が空いてしまった、おもひでぶぉろろぉぉんに関する雑感を書こうと思う。  読み返し作業は2008年の10月まで進んだ。夏の結婚挨拶のための島根行を経て、誕生日を迎え、プロペ★パピローは25歳となっている。相変わらずびっくりするくらい若い。20代半ば! いま、Z世代とか呼ばれる輩の年齢! の氷河期世代!  8月8日には無事に練馬区役所に婚姻届を提出していた。  そんなわけで無事に受理され、晴れて夫婦となる。  ちなみに名字の変わったファルマンが初めて新しいフルネームを書いたのは、その窓口で提案された苗木の登録で、なんとも間の抜けた感じ、そして間の抜けたと言えばファルマンの書くただでさえ間の抜けた文字が、書き慣れない僕の名字になるとさらにその間抜けさが強調され、もう腰が砕けそうなくらい間が抜けているなあと思った。  そのあと別の窓口に移動して世帯主の変更(これまで我が家は二世帯住宅なのだった。同棲カップルは二世帯住宅なのだ)をし、新しい住民票を取得する。  ファルマンの懇願により区役所の前でツーショット撮影という恥ずかしいことをこなしたあと、印刷したての住民票を持って近くのソフトバンクショップへ。そこでファルマンとの家族割引の契約を済ます。実に年月が掛かったがこれでようやく僕とファルマンは通信料が無料だ。ほとんどファルマンとしか通信しないのに、これまでは実に無駄なことをしていたとしみじみと思う 。  苗木ってなんだろうと思って検索したら、練馬区では結婚や出産などの慶事の際、希望者に苗木を贈呈しているらしい。その場でもらえるのではなく、配布日というのが決まっているのだそうで、だとすればその登録をしたということは、後日苗木を受け取ったはずなのだが、それに関する記憶や記述は一切ない。  ここで、この企画をやるにあたり、現状でも静止しているような進度なのに、ここにまで手を出したらいよいよ動きは完全に止まるぞと思い自重していた禁断の書物、「製本うわのそら」に手を伸ばしてしまった。web上の「うわのそら」は現在非公開となっているが、なにしろわが家には製本されたそれがあるのだ(しかもオリジナルの帯まで付いている)。  しかしながら8月8日の記事を読んだところ、もちろん区役所への届の提出のことは書かれているが、苗木のことには一切触れていなかった。そう言えばこの人は植物になんか1...

「おかあさんといっしょ」特別週を通して感じたこと

 「おかあさんといっしょ」が65周年ということで、先週は一週を通して、これまでの番組の歴史を振り返る特別版を放送していた。  ただし65年の歴史と言いつつ、振り返りは基本的に40年前くらいのところから始まっていた。すなわち、おさむおにいさんであり、ゆうこおねえさんであり、そして「にこにこぷん」である、まさに僕が現役幼児として観ていた時代だ。最終日に、本当に放送開始直後の、黒柳徹子が声優をしていたという白黒人形劇の映像も少し出てきたけれど、特別週の初日である月曜日に登場したのが坂田おさむと神崎ゆう子のふたりだったので、「おかあさんといっしょ」サイドとしても、現代に連なる地続きの歴史としてはそこからだ、という見解なのだと思う。それより前の時代のことは、斯様に今回もほとんど言及がなかったため、どういう形式だったのか判らないが、われわれ世代が観はじめたあたりでエポックメイキングがあったのかもしれない。これは僕の姉が得意とする言い回しで言うところの、「うちらの時代が黄金時代」のパターンと言えるかもしれない。  しかしそんな我らが誇る「にこにこぷん」だが、久しぶりに当時の映像を観て、懐かしいなあと思う部分はもちろんあるにせよ、そこまで万感の思いというほどには熱情は高まらなかった。そんなもんかな、と思いながら、特別週は火曜、水曜と続き、キャラクター劇も「ドレミファ・どーなっつ」「ぐ~チョコランタン」(そして黒歴史なのかほぼスルーされた「モノランモノラン」)と移り変わり、そして木曜日の「ポコポッテイト」が始まった瞬間のことである。オープニングが始まった途端に、ぶわっと強烈な感情が去来した。人生の大切な時間の思い出が呼び起され、愛しく、切ない、魂を抉られるような衝撃があった。2011年3月から2016年3月という、練馬だったり、第一次島根移住だったりした、ポルガ幼児期時代、僕は自分が幼児だった頃より、はるかに熱心に「おかあさんといっしょ」を観ていたようだ。こみ上がる感情の強さで、そのことを理解した。一方でポルガに「懐かしいだろう」と問いかけたら、「これはほとんど覚えていない」と言い、ピイガと観ていたこれの次の「ガラピコぷ~」のほうが印象が強いそうである。嘘だろ、と言いたくなる。当時の住まいであった島根の実家で、毎日あんなに一緒に観ていたじゃないか!  自分も含めて、どうしてこんな現象...

Long-lasting aphrodisiac effect

 とても珍しく、読んだ本の感想を書きたい。  もう長年そんなことをしてこなかったので(「PUROPE★PAPIRO★CANTABILE」時代にまで遡るかもしれない)、どのブログに書けばいいのか少し悩んだ。性の本なら「BUNS SEIN!」でよかったのだが、そちらの要素もないではないものの、それだけではないので、結果としてこのブログになった。要するにこのブログは、その他・雑記ブログであり、官庁で言えば総務省みたいな役割なのだな。  さてそんな前置きをして、わざわざ取り上げることにした本はなにかと言えば、リン・シェール著、高月園子訳「なぜ人間は泳ぐのか? 水泳をめぐる歴史、現在、未来」(太田出版)である。原書は2012年、訳書は2013年の刊行となっている。アメリカの女性ジャーナリストが書いた、泳ぐことにまつわる歴史およびエッセー。  向こうで「ブック・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるなど、ずいぶん評判がよかったらしく、たしかにおもしろかったし、なによりもこう思った。  こういう本、もっとないの?  なにしろ、目下趣味は水泳である。趣味なので、実は同好の士とそれについて語り合いたいという思いはひそかに抱いている。でも実際の関わりを持つのは面倒事のほうが多そうで嫌だし、かと言ってウェブのコミュニティなんかも性に合わない。そうなってくると、あとはもう水泳について誰かが語っているのを読むくらいしか手がない。  しかし水泳エッセーなんてものは、この世にほとんど存在しない。思い浮かぶのは、高橋秀実の「はい、泳げません」くらいのもので、図書館の水泳の棚を見ても、並んでいるのは泳ぐための教則本か、あるいは北島康介などのアスリートによる、自己啓発本みたいな、体育会系の奴が読んで簡単に心酔するような、そんな本ばかりである。そういうんじゃないのだ。市井のスイマーが、泳ぐこと、およびその周辺に関する雑感をつらつらと綴るような、そういうエッセーがいいのだ。  その点この本は、多少は衒学趣味が過ぎた部分はあるものの、かなり高い次元で、こちらの要求に応えてくれる本だった。  触れる話題は多岐に渡るのだけど、やっぱり僕個人の志向として、水着に関する話が特に興味深かった。ただし著者は女性なので、どうしても物足りない部分はあった。水着は体型をカバーしてくれないという話が主体で、水着のエロティシズムについての...

幻のノミネート語たち ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 過去の日記を読んでいると、そのときどきのマイブーム的な言い回しというのがある。個人的な流行語ということになるか。こういった流れを受けて創設されたのが「cozy ripple流行語大賞」で、のちに「cozy ripple名言・流行語大賞」と名称を変えつつも、「cozy ripple」というホームページが消失した現在も、敬意を表してその名は残し、続いている。  しかしこの創設というのが2009年のことで、そのため2008年以前に生み出されたフレーズは、栄えある舞台に上がることなく、ひっそり過去のものとなってしまったのだった。「おもひでぶぉろろぉぉん」で2008年の日記を読みながら、ブログの礎となった先達たちが正当な評価を受けないまま忘れ去られることが、どうにも不義理かつ不憫なことに思えたので、この場でそれらを紹介したいと思う。  まずこちら。 「ボニータ」  初登場は2008年4月16日。  男子校出身である僕は24歳になって初めて、女の子のプリーツスカートの下は、めくれたら即ショーツということはなくて、防御用の短パンのようなものを穿いている、ということを知ったのだった(どういうきっかけで知ったのかは記されていなかった)。  だからちょっとした突風程度のハプニングでは、たまたま通りかかっただけの自分に女の子のショーツという恩恵はもたらされないということになり、それは世界の明度が変わるほどのショックな事実だったが、基本的に前向きである僕は、「だったらいっそその短パンのことを慈しもう」と考え(なんとけなげなのだろう)、スペイン語で「美しい」という意味のこの言葉を与えることにした。命名の由来は、秋田書店の「ミステリーボニータ」という少女漫画雑誌だそう。すぐさま学年題にも採用され、高校1年生の学年語とされた。  この言葉はもしかすると本当に世間に広く浸透するのではないかという期待があったが、2024年現在、まるでその様子はない。  続いてこちら。 「カシコ!」「カシコン!」「かしこん。」  初登場は2008年4月25日。  女性が手紙の文面を結ぶときに用いる「かしこ」から来ており、これもボニータが関わってくるのだが、当時の職場の同僚から「ボニータが禁止という学校もある」という知見を得た僕は、ボニータにボニータという素敵な名称がついてしまったこともあり、これから少女たちの間では...

プロペの結婚前夜 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 前回の記事を書くの、もうちょっと待てなかったのか、というくらい、久しぶりに「おもひでぶぉろろぉぉん」をやったら、すぐに結婚挨拶のための島根行の記事が出てきた。「KUCHIBASHI DIARY」、2008年7月19日である。まあ別に、それを読んだあとで前回の記事を書いていたら、もっと厚みのある味わいになったはずなのに、ということでもないけれど。  練馬区役所に婚姻届を提出するのは8月8日のことなので、実際もう直前と言っていい。長い目で見れば「結婚前夜」と言ってもいい時期だ。ちなみにこの島根行の1週間前には、ファルマンが横浜の実家へとあいさつに来ている。  帰る直前に、ファルマンがちょっと改まって祖母と母に向かって挨拶をする。祖母と母は「こんなんでよかったら」だの「絶対に一生金持ちにはならないけどいいの?」だのと勝手なことを言っていた。折鶴を1羽50万円でアラブの富豪に売って億万長者になる予定の僕に向かい、身内のくせにずいぶんと厚顔無恥な発言であると思う。  日本人的な身内に対する謙遜というのもあるだろうが、「絶対に一生金持ちにならない」ってすごい物言いではないか、と思う。「絶対に」って。事実、現状金持ちにはなっていないわけだが、それはこのときの言霊による呪いのせいではないかと思う。この発言がなかったら、今ごろ札束風呂だと思う。  7月19日の島根行は日帰りで行なわれた。だから交通手段は当然飛行機である。  羽田空港に来たのは初めてのこと。飛行機は約11時発。  乗り込んで座席に就いて、自分の心拍数が明らかに上がっているのが感じられた。これまでは普通に飛んでいたけど、こんなにも飛ぶはずがないという確信を持った人間の乗った飛行機は、おそらくきっと飛ばないだろうと思った。気分を紛らわせようと、用意していた本を鞄から取り出す。さて読もうかと思ったところで、これが自分でもびっくりの天然で、その本が向田邦子であることに気付く。もう狙ったとしか思えない、末期的なブロガーっぽいエピソードなのだが、本当にぜんぜん考えてなかった。普通に「いいな」と思って手に入れていたのだ。大失敗だ。持っていること自体が不吉であるように感じられ、窓から投げ捨てたくなった。  それでもとにかく飛行機は飛んだ。意外だった。  僕が小学生の頃、いま思えばどういう風の吹き回しだったのか、3年生くらいのときにオ...

納涼・母の怖い話

   この初夏に実家では、ちょうど1年前のわが家にもあったような、「振り返ってみたらあれはただの風邪ではなくコロナだったんだろうなあ」という事象が起ったそうで、もちろん大事には至らなかったのだけど、祖母にはいわゆる典型的な症例のひとつである、「食べ物の味がしない」が表れたのだそうだ。  それはタイミングとして、祖母がいつも近しい人に送る桃の出荷シーズンのことであり、自分用にも購っていた祖母は、届いたそれをひとつ食べて、「今年の桃は味がしない」という感想を抱いたという。それは振り返ってみたらコロナだったからにほかならないのだけど、まだそれ以外の、発熱や倦怠感なども出ていない段階だったので、そんな可能性には思い至らなかった。その話を聞いて合点がいったのだけど、山梨の業者から発送された桃は、同時にわが家にも届き、届いた晩にとりあえずお礼の連絡をしたところ、その際に祖母は、「味はどうだったか」とやけに気にしていた。しかしそのときはまだ冷蔵庫に入れただけで手を付けていなかったため、問いかけに答えることはできなかった。折悪しく、今年の規格外の暑さのためか、届いた十数個の桃のうち、箱を開けた時点で2個ほどグズグズになっていたものがあり、祖母が桃の品質を気にしているのはそのあたりの不安からだろうと、こちらも勝手に解釈したのだった(もっとも年寄りというのは、果物およびトウモロコシなどについて、糖度というものを異様なまでに気にする生きものなので、送った果物の甘さを気にするのはいつものことだとも言えた)。  そのあと祖母は体調を崩し、やがて回復して、「振り返ってみたらあれはコロナだったからか」となり、それから食べた桃はきちんと味がしておいしかったという。めでたしめでたし。  さて、この他愛もない一連の話に、ひとつだけ少し奇妙な点がある。どこだか分かりますか。  それは、コロナ感染後に桃を食べて「今年の桃は味がしない」と気を揉んでいた祖母は、回復後に食べた桃はきちんと味がしたので、ようやく安心することができた、という点である。だって祖母は独り暮しではない。実の娘、すなわち僕の母と暮しているのだ。母もまた祖母に前後して「振り返ればコロナ」だったとしても、祖母が食べて「今年の桃は味がしない」と言った桃を、「どれどれ」と賞味して、そのとき母に味覚があったかどうかは別として、感想を伝えてやることく...

結婚するって本当ですか ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 そのあともうひとつの目的で、区役所に行く。これまで2年に渡ってそのままにしていた、住民票を移すということをする。これはなぜかと言えば、なんかもうそろそろ結婚するかもしれないわけで、その伏線ということである。  2008年のブログを読み進めていたら、いきなりこんな記述があったので驚いた。  労働が休みで実家に帰った6月の出来事である。  ファルマンと僕はこのあと2008年の8月8日に、練馬区役所において入籍をするので、事前に住民票を移しておくのは当然で、伏線というのもたしかにその通りだ。  驚くポイントは、「なんかもうそろそろ結婚するかもしれないわけで」という言い草である。  ここまできちんと年代を追って読んできたので分かるけれど、ファルマンと僕が結婚をするという話は、僕のブログにおいて、このとき初めて出たはずである。この前年の9 月に、それまでの変な形の同居状態から、大手を振っての同棲生活へと移行しているわけで、結婚という流れは順当と言えば順当だが、しかし同棲しても結婚に至らないカップルなんていくらでもいる。われわれがどっちに転ぶのかは、この時点まで不確定だったし、結婚するなら結婚するで、もう少し満を持して発表するべきではないかと、40歳の目から見て思う。  しかしこれもまた、前々回の記事と同じく、時間が経ったことでジョークがジョークとして通じなくなっているタイプなのかもしれないとも思う。どういうジョークか。「伏線と真相を同時に言ってしまう」というジョークか、はたまた「結婚というとても大事なことをあえてめっちゃさらりと言う」というジョーク。どちらにせよあまりに伝わりづらい。24歳のセンスは解らない。  あるいは、「25歳で結婚する」というのはファルマンの人生における決定事項だったため、この時期にはもうだいぶ結婚のことをせっつかれており、それにより僕は少し蓮っ葉な態度となり、なんか知らねえけど俺は結婚するらしいんだよね、という他人事感をにおわせているのかもしれない。そしてたぶんこれが正解なんだと思う。  説としてこれが正解だろうし、そしてファルマンにだいぶプレッシャーをかけられての、このタイミングでの結婚というのもまた、人生における選択肢の正解であったのだと、16年後の今、実感する。まだ覚悟ができていない、だいぶ流され気味な感じだが、じゃあ待っていたら僕の中の機はい...