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顔パンツを巡る冒険 3

 思えばヒントは無数に転がっていた。  たとえば官製マスク、通称アベノマスクは、炎上タレントに「ブラにした」というネタにされたあと、さらに別の炎上タレント(でさえもはやないのかもしれない)に、「ショーツにした」と下半身に着けられていた。「マスクがショーツになった」ということは、すなわち「マスクとはショーツである」「マスクとショーツはそれぞれ代替可能である」に通ずる。でもそのときはまだ、新型コロナウイルスが本当に由々しき事態のときだったし、それにマスクを取り巻く環境もぜんぜん落ち着いていなかった。そのためマスクを「顔パンツ」というふうに捉える発想には至らなかった。  不織布マスクが不足し、布マスクに大きな商機が生まれ、いろいろなメーカーが布マスクを販売しはじめたとき、下着メーカーが売り出した、ブラのカップそっくりのマスクが注目を集めたことがあった。パンツではないけれど、これもまた振り返ればヒントだった。でもたぶんあれは若干ジョークの入った商品で、だってあまりにもただのブラジャーの片方だったので、殺伐とした時世において、みんな画像を見て「あはは」と一瞬だけ微笑んで、ちょっとだけ泣いて、そして流れ去った。2020年5月12日にツイートした、「この夏のマスクが蒸れるをとめごにノーブラ登校特別措置法」という短歌は、もはや前後関係は定かではないけど、あのブラジャーマスクを見たところから想起されたのかもしれない。  もっともこのあたりの時期、グンゼやワコールなどのいわゆる下着メーカーも、下着のノウハウを生かしたマスクというものを、当然ながら売り出していたに違いない。正確な販売時期などは知らないが、下着メーカーがあの時期、マスクを作っていないはずがない。しかしあの頃、下着メーカーはもちろん、アパレル以外の業種からも、布マスクの発売は濫発していて、ユニクロがとうとう出すぞ、シャープが不織布マスクを作ってくれるらしいぞ、なんてことばかりが、やはり大企業の宣伝力なのか、大きく取り沙汰され、マスクと下着メーカーを密接に結び付けて考える発想はなかった。  そもそも僕は自分で、親類に配るほどの数の布マスクを作っていたものだから、メーカー製のものへの興味がまるでなかったというのもある。しかしその布マスク製作の際、バリエーションのためにいろいろな表地を選ぶ中で、これってまるで下着みたいだな、それじ

顔パンツを巡る冒険 2

 とある事情からズボンを作ることとなり、図書館のホームページで「パンツ」を検索窓に入力し、無事によさそうなパンツ縫製の本を予約することができたのだが、その際にキーワードに引っ掛かり、「パンツを脱いで寝る即効療法」なる書影も出てきたので、なんだこれはと、反射的にこちらにもチェックを入れ、一緒に申し込んだ。本は数日ですぐに最寄りの図書館に到着し、すぐに借りることができた。  本の内容は、タイトルの通りで、とにかくパンツのゴムが人体にとって害悪であるという根拠のもと、日中は社会生活があるのでしょうがないが、せめて寝るときだけでもゴムの害から身を守ろう、そうすればありとあらゆる体の不調が改善する、というものだった。  これまでぜんぜん聞いたことがなかったが、この本が刊行されたのが平成3年で、その頃はけっこうブームにもなったらしい。文中に、「一日中マスクを着けていることができますか? そんなことをしたら人によっては口のまわりが吹き出物だらけになるでしょう」という記述があり、30年後の世界ではそれが現実になったんですよ、ということを思ったりした。  ゴムは、きついのはもちろん分かりやすくダメだが、ほとんど締め付けがないような緩さでも、それでも着けている間は持続的な刺激となり、それがやがて病的な自律神経反射を起し、さまざまな病気を招く、と本書は語る。本当かよ、と思う一方で、こういう健康本というのは得てしてそうなのだろうが、そうかもしれない、と感じる部分もあり、そんなことを聞くと、途端に自分の穿いているパンツが、禍々しいもののように思えてくる。今がこんな時期でなければ、すぐにでもノーパン睡眠を実行してみたいが、さすがに導入には向かない季節だ。  パンツを穿かないということは、性器や肛門が直接布団と接触するわけで、そのあたりに、抵抗を覚える向きはあるだろう。それに対して本書は、シーツは頻繁に洗えばいい、それよりもパンツの中で空気が籠もるほうがよほど不潔だ、と論破する。論破になっているのだろうか。もはや誰が味方で誰が敵なのか、分からなくなってきた。  サウナに関して、蒸されて、水風呂に入って、休憩して、ととのうとかじゃなくて、要するに僕は裸になりたかっただけなんだ、裸で外気を浴びてベンチに座ったり横たわったりする非日常感を味わいたかっただけなんだ、と気づいた、ということを前に書いたが、

顔パンツを巡る冒険 1

 オミクロン株の出現によって、新型コロナ騒動は、だんだん終わりの気配が見えはじめた気がする。もちろん、そうキパッと終わるものではなくて、いろんな考え方の人がいるので、終わるタイミングは人それぞれだ。どうも中には、コロナ禍にある暮しこそが平常、むしろこれが自分の立脚点、みたいになってしまっている人もいる気がして、日々というものは、新型コロナウイルスの感染状況以外、なにを気にして生きていくものだったっけ、と惑うような、そういう人は「夜明け前」のように、時代の趨勢が移り変わってしまったあとは、自己のアイデンティティを喪失し、どう生きればいいのか途方に暮れてしまうのではないかと、他人事ながら心配になる。大きなお世話だ。たった2年でそれまでの人生観が様変わりしてしまった人は、心配などしてやらなくても、じきに折り合いをつけて再び「普通」を獲得するだろう。「普通」に生きる人間は、強く、たくましく、ふてぶてしいのだ。  新型コロナ収束後の世界で、僕が期待しているのは、このたびの騒動ですっかり市民権を得た、マスクの習慣がいつまでも続くことだ。マスクは本当にいい。コロナ前の世界では「伊達マスク」などと呼ばれ、やや社会問題的に扱われていたものだが、見事にひっくり返った。僕は伊達マスクの習慣はなかったが、強制的なマスク生活を経て、もう完全に手離せなくなってしまった。それは、新型コロナが収束したとて、世の中にはいつだってどこだってウイルスがあり、特に人の多い場所ではマスクをしておくにぜんぜん越したことはない、という感染症対策としてももちろんだが、それに加え、顔の半分を隠せるのが居心地よい、という理由も大きい。顔をさらけ出さないことは、こんなに楽なことだったのか。  例えば咥内および歯の汚れである。例えば鼻毛や鼻糞である。例えば剃り残しのだらしないひげである。マスクをしていれば、それらの懸念から解放される。あるいは他者とのコミュニケーション的にも、動揺していることを悟られにくかったり、あとこれも地味に嬉しいと、しみじみ感じることとして、仕事中などに同僚と話して、同僚がなにかジョークめいたことを言って、こちらはもちろんそれに対して愛想笑いをし、そこで会話が終了するわけだが、これまではその最後の笑顔を、作業の続きに戻ったあと、どのタイミングでどうやって真顔に戻すか、という悩みがあったが、マスクのお