16年越しの罠 ~おもひでぶぉろろぉぉん~
すっかり騙されてしまった。
「おもひでぶぉろろぉぉん」を普通に進めていたら、2009年4月2日付の「KUCHIBASHI DIARY」に、以下のような文章があった。長いし、引用の中で引用という感じになり話がややこしくなるが、そのまま転載する。
昨日はエイプリルフールということで、前にもちらりと書いた、「僕が『うわのそら』に「ぱぴこ(ファルマン)」として日記を書き、彼女が『KUCHIBASHI DIARY』に「purope★papiro」として日記を書く」、というのをついに実行しようとする。それのなにがどう嘘なのかよく分からないけれど。
それで3月31日に、以下の文章を書いた。
つけないよ嘘つけないよ斉藤がターキー決めるのかっこよすぎる
新年度です!
仕事の帰り、空を見上げるときれいな夕焼けでした。桜もそろそろ満開で、桜は昼間とか夜のイメージが強いけど、夕焼けの桜っていうのも、淡いピンク色がオレンジにすっかり染まってしまって、なかなかに素敵でした。そう言えば誰かのそんな歌があったな……。
帰り道の途中に小さな公園があるのですが、そこで遊ぶ子どもたちがとてもかわいかったです。女の子がすべり台をすべろうとするのですが、下から男の子が逆走してくるのでなかなかすべることができず、なにやら女の子は怒っているようなのですが、男の子は笑うばっかりでいつまでもどいてくれません。ああ私が子どもの頃にもあった風景だな、子どもの遊びっていつまでも変わらないんだな、とちょっと嬉しくなりました。多分あの男の子は女の子のことが好きなんだろうなあ。
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家で夫の帰りを待ってぼんやり夜空を眺めていたら、一瞬キラッと光るものがありました。なんだろうなんだろうと眺めていたら、その光はだんだん私のほうに近付いてきて、我が家のベランダに着地しました。光の強さに目がくらんでしまってすぐには判らなかったのですが、慣れてから見てみると、それはボールに手足だけ生えたような生きものだったのでびっくりしました。
でもびっくりした次の瞬間、私の頭のなかで大爆発が起こり、一気にいろいろなことが思い出されてきたのです。そして私は叫んでいました。
「トルンペ=ザ=ルプブ!」
そうです。その丸い生きものは、私がかつてゾムルーシュ姫と呼ばれていた頃の世話係、トルンペだったのです。
「姫さまに会いたくて飛んできちゃったんだホントスイマセン」
あああ懐かしい。トルンペの語尾。ホントスイマセン!
私たちは再会を喜び合い、私はトルンペの臭いを少々気にしつつも、家の中へ招き入れました。
トルンペは私の差し出したインスタントコーヒーを、地球の言語では文字化不可能な音(ああエキサイトブログでミルメメ文字が使えれば!)を立てて飲み干し、「ごちそうさまホントスイマセン」と言いました。そしていろいろな話をしました。星のこと、みんなのこと、初恋のあの人のこと(今は路上詩人をやっているそうです)、王国で7年前に壊滅的な経済破綻があり、トルンペが我々一家から寝返って世話係となった新王朝は崩壊したこと、そしてトルンペは職を失ったこと、私と夫の定額給付金のこと、結婚式で出た黒字のこと……。そう言えばトルンペの顔はちょっとげっそりした感じがありました。仕方ないのでインスタントラーメンを作って出してあげると、トルンペはずぞぞぞぞ、と一気に汁まで平らげてしまいました。最後にトルンペは「僕をキャラクター化したら女の子たちにウケるんじゃないかなホントスイマセン」と提案してきたのですが、残念なことにトルンペの目の形が、こちらの星では決して真似して描いちゃいけない鼠の形に期せずして酷似しているので、それは絶対に不可能だということを説明して諦めてもらいました。
帰りがけトルンペがまだ物欲しげな顔をするので、フリスクを2粒だけ手のひらに出してあげたら、小さい頃は気付かなかったのですがトルンペの手のひらは人間の勃起した男性器そのものの形をしていました。またよく見ると足には人種差別を連想させる言葉そっくりの模様があり、さらには身体のシルエットはある宗教団体のロゴマークそのものだったので、お前みたいな物騒な生きものキャラクター化できるはずないじゃないか、するとしたら全身モザイクだよ、と思いました。
トルンペは最後に「ほんとすいませんでしたホントスイマセン」と言って帰っていきました。
ちなみに私が子どもの頃よく遊んでいたすべり台は、溶かして売ってしまったそうです。
それはそれで……、と思いました。
ウルトラソウル! 太陽のkomachi。
41歳の僕が、書いたことをすっかり忘れていた、25歳当時のこの文章を読んでどう感じたかと言えば、ずいぶんはしゃいでいるな、というもので、ここから16年の月日が経過して、僕自身もだし、なによりネット文章というものが、この当時より落ち着いてしまったのではなかろうか、と思う。それは洗練と言えば洗練だし、一方で藤子・F・不二雄の「老年期の終わり」のような一抹の寂しさもある。16年前に書いた文章は、人口冬眠で6000年前の地球からやってきた少年のように、ギラギラとしていて、眩しい。
でもこれは仕方ないことだと思う。たまに今も現役で、こういうテンションだったり、あるいはペイントで描いたような信じられないクオリティのイラストで紡がれるエッセイブログなんかがあって、あれにはものすごくぞわぞわした気持ちになる。そういうものを目にすると、赤の女王仮説、「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」というフレーズを思い出す。本当に同じことをずっと続けていると、それはさすがに異様でおぞましいものになってくるのだ。
ちなみにだが、この文章が結局どういう顛末を迎えたかと言えば、これを4月2日の自分のブログに載せている時点でお察しというものだが、こういうことである。
しかしファルマンに見せたところ、「無理」と却下される。たしかに僕も書きながら、(無理なんじゃないかな……)という気はした。「うわのそら」の読者って微妙にジョークが通じなそうだし。なのでこうして自分の日記の4月2日付に載せてみた次第。
「うわのそら」というブログが閉鎖されてしまった今、この文章を「うわのそら」に載せるために書いた、というジョークの情趣が伝わりづらくなってしまっているのが残念だ。前半だけならあるいは、とも思うが、これに関しては41歳になった今の僕でも往々にしてそうであるように、それではどうしても気が済まなかったのだろう。すべり台の伏線回収がしゃらくさいな。
ちなみにだが、それじゃあ実際の「うわのそら」2009年4月1日はどんな文章だったのか、web上では見られないため、製本されたものを確認したところ、社会人3年目に突入したが、まだ仕事はぜんぜん思うようにならず、担当の営業さんともうまいこといかなくて、トイレで涙を拭いました、みたいな内容だった。う、うん……。夫が書いたおちゃらけ文章を断って、そして自前のそれを投稿する、というあたりに、ファルマンという人間の業を感じる。ファルマンは全力で走り続けている感じは一切ないのに、不思議なほどその場にとどまり続けている。なぜだろう。もしかしたらわれわれとは次元が違う存在なのかもしれない。
そしてこの日の僕の記事には、まだ続きがある。こうである。
だがその一方で、昨日の「KUCHIBASHI DIARY」は実はファルマンによるものである。こちらのブログの場合は読者が繊細じゃないと言うか、そもそも存在するかどうかも怪しいので、そんなことしてもなんの問題もなかった。僕が少々ムカつくだけだった。僕も人のこと言えないが、こうして「その人っぽい日記」というのを書かせてみると、相手が自分の日記をどう思っているのかが明白になっていいと思う。ふたりともブログやってるカップルにぜひおすすめしたい。
これを読んでなにがびっくりしたって、2025年の僕は「おもひでぶぉろろぉぉん」で、過去の日記を日付順で読んでいるので、この4月2日付の記事の前に、当然その前日の記事を読んでいるのである。そしてそれを、普通に自分が書いたものとして読んだのだ。
そうなのだ。すっかり騙されたのだ。16年前の自分およびファルマンに、まんまとしてやられたのだ。
その実はファルマンが書いたという、4月1日付の記事がこれである。
卯月とはをとめご疼く季節にて
気づけば四月。三月は、一月二月にも増して早かった。結婚式やら花見やら、おうち大好きの僕にしては、ようやったもんだと思う。四月は特に予定もなく穏やかな日々を過ごせそうなので、ハンドメイドを本格的に取りかかりたい。とりあえずはステッチトークにヒット君を邁進。
今日は午後から労働だった。午前中の限られた時間で、初期の純粋理性批判をひっぱりだして読む。やはり初期ほどクオリティが高く、最近のはイマイチよくない。性的表現に対する遠慮が見えるのだ。シャノマトペも捻りが足りない。求めているのはそんなんじゃねえよと思う。うーむ。なんともかんとも。
駅で女子高生をちらほら見かけた。何か足りないと思ったら、そういえばここのところ春休みで、女子高生を見かける機会が極端に減っていたのだ。なるほど今日は四月一日、新年度なのだなと気づき、たちまち生きるのが愉しくなった。制服姿の女子高生は相変わらず可愛く、久々すぎて一瞬、春の妖精さんかと思った。妖精さんなら僕の願い事を叶えてくれてもいいと思う。でも、恐らくそれどころじゃないのだろうな。新年度のクラス替えや新しい先生のことで不安いっぱいな胸中を思うと、おっさんひどく悩ましい気持になったことだよ。一生、女子高生で季節の移り変わりを感じて生きていきたい。チュニック!かしこん!
その頃の空気感が掴めないので、当時の僕からすれば、そんなふうには書かねえよ、という部分があるのかもしれないが、16年後の現在から眺めれば、ぜんぜん違和感なく読めてしまう。だいぶそれっぽく書いていることだ。ゆえに、すっかり騙されたということも含めて、てめえこのヤロー、という気持ちは募った。16年前の、25歳のファルマン、このヤロー。今ここに本人がいたら、41歳の僕がひどく乱暴にかき抱いてやろうかな。おぞましい話だな。