note heno omoinotake
某台帳的な名称の文章投稿サービスについて、思うところを書きたいと思う。つまりは「note」についてである。ただし先に断っておくが、そこまで経緯を詳細に把握した上で書こうとしているわけではない。そんなことに割く時間は持ち合わせていない。しかし、にわかな情報をもとに、あとは自分の勝手な想像と、そしてやけに確信的な言い回しでもって、世の中の物事については、わりと堂々と語ってもよいのだと、ChatGPTを見ていて気付いたので、そういう姿勢で臨みたいと思う。本当に、それでいいんだと思う。だってどんな事象に関しても、どれほど精細に調べようとしたところで、100%の理解などあり得ないのだから。そう考えれば、むしろ人よりも多少知識を多く持っている人間が、そうでない人に向かって、「きちんと調べてから物を言え」などと唱えることのおこがましさのほうが気になってくる。あなた方が信条としているそれは、いったいなにを根拠に、どの度合までのことを言っているのですか、と。
本題に入る。noteについてである。いつ頃に誕生したサービスなのかは知らないが(そのくらいは検索すればすぐに判るが、それさえしない)、体感として、この5年、いや6、7年くらいかな、わりと目につくようになってきた気がする。
世の中(web)にまずブログがあって、それへの反論として短文に特化したTwitterが生まれ、そこからさらには文字でさえないInstagramが隆盛し、そのInstagramと、これは別の系統(個人的なものではなくマスメディア)であるYouTubeの、あいのこがTikTokで、2020年前後はこのあたりの、僕はよく「プリミティブ」という言葉でこれらのサービスのことを暗に蔑んだけれど、よく言えば言語を要さないので世界基準の、しかし頭を使わない、直感的なジャンルが覇権を握っていた。そうなるとそれに対するカウンターカルチャーとして、一回転してまたブログが息を吹き返せば話はスムーズだったのだが、そうはならず、古式ゆかしきブログサービスというものは、循環ができていない劣悪な環境で長年放置されていたものだから、もうあまりにも澱が溜まりすぎ、酸味が強く出てしまっていて、世間の人々は手を伸ばしづらかった(一部のタレントや、アフィリエイトを目的としたブロガーの責任も大きい)。そこで生み出されたのがnoteであったと思う。noteは、「ひと巡りしたあとのブログ」という印象で、これって音楽シーンで言うところの、まず70年代80年代の歌謡曲があって、その流れで90年代のJ-POPがあったのち、2000年代に入ってからはEXILEや倖田來未などの、やっぱりプリミティブと言いたくなる(わざわざ断るまでもないが、僕はこの言葉を、「知性がない」みたいなニュアンスで使用している)時代がしばらく続いてからの、2010年代になってあいみょんや米津玄師が出てきたという、それととても似た流れだ(どこまでも個人的なイメージだけで語っている)。
そういう意味で、僕は当初noteに対してそこまで敵対的な印象は持っていなかった。ブログが抱えてしまった澱である、無意味な改行や絵文字などがなくて、文章表現というものの原点に回帰した、シュッとした感じだなあと、感心さえしていた。ただし僕はもはやロートルブロガーなので、どんなに快適な環境を整えられているとしても、いまさら地球から離れてコロニーでは暮らせないし、これまでに何度か言った覚えがあるけれど、記事ごとではない、個人ページそのもののタイトルを設定できない仕様に違和感があったので、鞍替えすることはなかった。
あとnoteの大きな特徴として、有料記事というのがある。ブログにもそれと似たようなものはあった(メンバー限定記事など)が、noteはそれがより顕著であった。サクッと、とてもカジュアルに、この先を読みたかったらお金を払ってくださいと、まるで戦後の紙芝居屋のようなことをnoteの書き手(「クリエーター」と称するのである!)たちはのたまうのだった。それについては、はっきり言って僕は反感を覚えた。それは老害と言われれば言い返しようのないムーブで、webにアップする文章なんぞでお金を儲けようとすることは浅ましいという、そういう認識に基づく反感であった。アフィリエイトしかり、ステマしかり、ブログでお金を儲けようと企んだ輩によって、ブログが病理に侵されたのだという、古の記憶も作用していた。リメンバー小森純なのであった。
これについて、「お金を儲けようとするのは悪いことですか?」「そういう考えが日本のクリエイティブ産業を停滞させるのではないですか?」などと問われたら、たぶん僕は「やかましい!」と叫びながら杖を振り回すしかない。どうしても受け入れられないのだ。だから結局のところ、noteと僕のweb活動が交差することはなかった。
それに対し、ファルマンは手を出した。ファルマンは「うわのそら」が飽和したあと、しばらくwebへの文章投稿から遠ざかっていたが、2024年からnoteでぽつぽつとやっていた。ただしもちろん有料記事ではない。純然たる日記ブログとしてやっていて、それはともすればブログよりもさらに太古の、「web日記」時代の空気を彷彿とさせるもので、まるでラピュタ王国が滅亡したあとの、廃墟となったラピュタ島で暮すロボットと鳥のような、平和な世界であった。しかしそんなファルマンも、つい先日noteを辞めた。この理由というのがまた、太古から連綿と続く、ある意味とてもノスタルジックなもので、「なんか厄介なコメントをしてくる人がいてうんざりしたから」なのであった。人間はいつまでも同じことを繰り返し続けるのだな、と山野辺のような視点から、しみじみと思った。そしてファルマンがnoteを辞めたから、noteに対する思いの丈をこうして書くことにしたのだった。
本題に入ると言ってから、ここまでだいぶあったが、実はここからが真の本題で(長いよ!)、本心としてはここから先は有料にしたいくらいなのだが、ファルマンがこのタイミングでnoteを辞めたということに関し、実際はそうではないのだが、大抵の人が真っ先に思い浮かべるのは、例の一件ではないだろうか。すなわち、noteはGoogleの子会社となり、それに付随して、noteで書かれる文章は基本的にGoogleの運営する生成AIの学習材料になることとなり、それを否とする人はそういう設定にすることもできるが、生成AIにとって価値のある文章を投稿した人には対価が支払われるという、そういう新システムが告知されただろう。あれである。あれに反発して辞めたのかな、と。そういうことではないのだ。そういうことではないのだが、これもこれで、いろいろ考えさせられる話題なのだった。
これに関して、まだ自分の気持ちが定まっていない。ここから先は有料です、の紙芝居屋システムのあさましさは、そのあさましさが認知しやすかったけれど、なんかもはやこれは、どう捉えるべき事象なのか、よく判らないのである。そもそも僕は、生成AIが作り出すイラストやグラビアが明らか(絶対にあのグラビアアイドルの顔がベースになってるじゃないかという画像など)にそうであるように、web上にアップしたものは、押し並べて無条件に、AIに取り込まれているものだと思っていた。だってそういうことでしょう。文章も、イラストも、写真も、音楽も、もう全部AIに取り込まれていて、そしてそれを生成AIが、叡智と愛で精製して、きれいな形で目の前に出してくれてるんでしょう、と。それをいまさら、noteに投稿したものを、許可してくれたら取り込ませてもらって、その価値によっては対価を支払います、などと言われても、ポカンとしてしまう。なんだろう、これは。欺瞞だろうか。本当は勝手に取り込んでるけど、勝手に取り込んでいるわけではないのですというパフォーマンスのために、noteという場所を利用しているのだろうか。
どちらにせよ、ひとつだけ確かなことは、やはりnoteという場所の胡散臭さ、さもしさだ。webに投稿する文章でお金が得られたら、それはいいだろう。こちとら悪質なタックル(&悪質な入学金徴収をするウエイトリフティング)大学の、夢見がち学部、文芸学科出身である。ネットにアップする小手先の文章でお金がもらえたらいいのになー、という思いがないはずない。だけどそれに手を出すことは、ほんのわずかな、なけなしの、それでも持っている矜持に反するのだ。なぜか。web上の文章で、対価が支払われるような文章は、負け惜しみでもなんでもなく、質が悪いからだ。本当に質のいい文章であったら、出版されている。そうではなく、それでもお金が発生する文章というものは、要するに情報料だろう。有益な情報が含まれているから金が支払われるのだ。でも思い出してほしい、それは小森純だ。小森純はシロアリのようなもので、わらわらと建物の柱を喰ってしまい、やがては建物全体を崩壊させる。情報を提供するだけの文章は、根を腐らせるのだ。
あと最後になるが、なにが切ないって、Googleが生成AIのためのそれに用いるのが、noteであるということだ。Googleは自前の、この、Bloggerというブログサービスを持っているのに、ぜんぜんそっちには見向きもせず、なぜnoteなのか。いや、Bloggerでそんな制度が始まったら嫌なのだけど、あまりにも無視されている感じがして、ちょっとびっくりしたのだ。まあ無視されているというか、前から言っていることだけど、Googleはたぶん、Bloggerのことをすっかり忘れている。思い出したらバッグの奥底に落ちているくしゃくしゃのレシートのように棄てられるから、このままずっと思い出さないでほしいと思う。それともあれだろうか、本当に大事にしたい子とはセックスをしないみたいな、これはそういう話だろうか。性欲はnoteみたいなあばずれで解消するくらいでちょうどいいということだろうか。
だいぶ長い話になった。とにかく時代は動いている。僕は今後も無益なブログを続けながら、さらには16年前の自分のブログを振り返りさえして暮していこうと思う。