レンタルボックスの7ヶ月間 ~おもひでぶぉろろぉぉん~


 かつて西荻窪のレンタルボックス、『ニヒル牛』でスペースを借り、作ったものを売っていた時期があった。2008年11月から2009年6月までという7ヶ月間で、僕は25歳だった。
 その名称や、立地が西荻窪というあたりから容易に察せられるが、多分にサブカル的なスポットで、運営者はバンド「たま」のドラムの人(とその奥さん)だった。もちろん自力でそんな場所にたどり着けるはずはなく、練馬時代には近所だったこともあり懇意にしていた、大学の同窓の夫婦から紹介してもらったのだった。

 それでもなんとか西荻窪の町までたどり着き、店にも行き着く。7時3分前くらい。でも入店してカウンターの人に「時間は大丈夫ですか?」と訊ねたら「8時までだから大丈夫ですよ」とのことだったので、取り越し苦労だった。それでのんびりと店内を眺め、ほほうと感じ入った後、箱を借りるための登録を申し出た。借りられるのはだいぶ先らしいけど、とりあえず用件が済んでよかった。
(2008年7月6日 KUCHIBASHI DIARY)

 そのあと適当なところで晩ごはんを食べていたら、携帯電話に登録していない番号から着信があって、出たら西荻窪のレンタルケースの所だった。言われていた通り、4ヶ月ぐらいでの連絡である。場所が空いたので近いうちに来てほしいと言われ、あさっての月曜日に行くことにする。契約、そして初めての納入だ。うわー。ドキドキする。
 そのあと、その電話の前には、「行く? まあ行く必要ないか」みたいに話していた、プロペ通り先にあるダイエー5階のユザワヤ所沢店へ、ちょうどそんな風な連絡が来たものだから色気(情熱とか焦りとか)が出たのか、寄る。そこでちょっと厚めの生地を3色買った。これはコースターを作るための布である。売れるのかどうか判らんが、物は作らなければいけない。もちろんあさっての納入はほぼヒット君人形だけになるだろうけど。
(同年11月1日 KUCHIBASHI DIARY)

 午後から西荻窪の例の店に納品に行く。
 それまでに、「ヒット君人形だけじゃ寂しくない?」というファルマンの提案で、バッヂとかシールとかを作る。バッヂは本当に作り、シールは大昔に作っていたものを、ファルマンがうまくまとめてくれる。夫婦でせっせと。マニュファクチュアる。
 納品は割とスムーズに終わる。他人の作品を見て、(あれ、ヒット君人形600円じゃ安くね?)ということで急遽700円にしたりした。
 バッヂ、シール、店のケースの様子、それぞれ「STITCHTALK」に邁進。
 あとは売れるのを待つばかり。実際まあ売れても売れなくてもいいのだが、このヒット君人形とかが家にまったくなくなっての、自分の創作意欲の湧き上がりが尊い。実際バッヂとか1時間ちょいで10個くらい作ったし、作ろうと思えばどれも気楽に作れるのだから、やる気を出してガンガン作るべきだと思う。
 そんなわけなので西荻窪を出たあと吉祥寺に移動し、ユザワヤでバッヂとか消しゴムはんこの素材を調達。次回は消しゴムはんこも納品できたらいいと思う。あとコースターも。
 愉しいなあ。日記とか書いてる暇ない。クラフト作家になろう。
(同年11月3日 KUCHIBASHI DIARY)

 25歳の青年が新しいことを始めるときのワクワク感が伝わってきて、その後の顛末が解っているだけに、涙が出そうになる。ちなみにこのときの「STITCHTALK」にアップしたケースの様子の画像がこちらである。
 

 この画像だと、ずいぶん薄暗い店内のように見える。実際そうだった気もするし、当時の携帯電話の写真機能のことなのであてにならない気もする。ただしひとつ確かなこととして、店内にいくつか林立していた、3段くらいに分かれているボックスの、僕に与えられたのは最下段であった。最下段なのか、と思ったのでこれはよく覚えている。ボックスは台の上に乗ったりしていなかった。だからほぼほぼ地べただった。
 それでもはじめのうちは精力的に活動していた。

 自転車を回収し、線路に沿って西荻窪へ移動する。例のレンタルボックスにまた納品をするためである。今回は消しゴムはんことくるみボタンを納品。前回納品した商品のうち、ヒット君人形が2体ほど消えているような気がした。売れたのだろうか。ひと月〆なので結果はまだ判らない。次に行くときには「月刊少年 余裕」を持っていければいいなと思う。
(同年11月22日 KUCHIBASHI DIARY)

 「月刊少年 余裕」、懐かしいな。しかしこのあと結婚式の準備期間に入り、僕は猫を、猫を2644匹描かねばならない(そうしないと親友が処刑される)ことになってしまったため、だいぶ停滞したのだった。ちなみに創刊号が完成したのはここから5ヶ月後のことであった。
 この次にレンタルボックスの記述が現われるのは2009年3月である。

 店の人に話しかけると、「ああ、ヒット君の」という感じで反応してくれて、ボックスを見て怪訝に感じたことでもあったのだが、合計14体納品したヒット君フェルト人形は、店の人に認識される程度には動きがあり、すべて完売していたのだった。嬉しい。お店の人からは「ヒット君売れるのよー。作ってきてくれた?」と訊ねられ、たしかにボックスにはバッヂとかくるみボタンしかなくてすっかり寂しい感じになっていたのだけど、もちろん人形なんかできているはずがなくて、「こんど作ってきます」と返事をした。それでこの3ヶ月で売れた金額の取り分を受け取り、なにしろ14体も売れていたので、それはまあまあの臨時収入的な金額であり、「おおお」と軽く興奮し、しかし契約期間はやっぱり過ぎていたので、受け取ったその金額から、「じゃあとりあえず2ヶ月分お願いします」という感じで契約を延長した。臨時収入と言いつつも、場所代と材料費と労力を考えれば収入でもなんでもないのだが、しかし僕の作ったヒット君フェルト人形14体を、だれかぜんぜん知らない人が持っているのだ、と思うとこれまで味わったことのない快感があったので、精神作用的には大いにプラスなのは間違いない。
(2009年3月20日 KUCHIBASHI DIARY)

 3月15日に執り行なった結婚式のゴタゴタでしばらく足が遠のいていたようだが、久しぶりに赴いた店では、納品した14体のヒット君人形が完売していたのだった。
 そうだった、作ったヒット君人形はすべて手元にあり、こののち生まれたふたりの娘がさんざん遊び倒し、そして一体一体に余さず名前がつけられたような気がしていたが、この世界には、娘たちが生まれるよりも前に作られ、そして知らない人の手に渡ったヒット君が、14体いるのだった。なんだかそれは、「前の家庭の子」感があって、ちょっと不思議で気まずい、どう捉えていいのかよく判らない存在だ。それぞれの貰われ先でしあわせになっていればいいと切に思う。
 しかし14体。わりと売れている。ただし書いてあるように、本当に100%手縫いで拵えていたので、700円ではぜんぜん労力に釣り合わない。しかもそこから3割引かれるのだ。700×14が9800円で、その3割引きは6860円である。そしてさらに場所代。たぶんこのとき、売れたな、嬉しいな、と思うと同時に、猛烈な見合わなさを感じたのだろう。しかも最下段だし。2ヶ月しか延長しなかったところに、もう終焉の気配が漂っている。

 ヒット君人形作りに励んでいるのだけど、実はこれらというのはもう例のレンタルボックスに納品する予定はない。前回2ヵ月の契約を延長し、6月の頭まで場所は貸してもらうのだけど、それ以降の契約はもしかしたらしないかもしれない。
 なんか、急に冷めてしまったのだ。ハンドメイドがじゃない。毎月1000円を払い、商品が埃まみれで放置され、売れたら本体価格の3割を持っていかれる感じに、憤りに近い拒否感を抱いてしまった。こうなるともうダメだ。とてもモチベーションは上がらない。
 まあこの約半年はそれなりに愉しかったので、甘酸っぱいいい思い出ということにする。
 今後は、販売するのか、販売するとしたらどういう方法か、あまりがんばって考えようとせずに、とりあえずはただ作っていこうと思っている。つまりレンタルボックスを借りる前とまったく一緒。
 ちなみにハンドメイド熱は本当に高まってきていて、特にヒット君人形は愛着が湧いてしょうがない。ヒット君人形をぜんぶ手元に置いておきたいから売るのをやめるのではないかとさえ思う。決して埃まみれになんかさせません。
(同年4月23日 KUCHIBASHI DIARY)

 地べたと同じ最下段では、ボックス内がすぐに埃やゴミまみれになるのではないかという懸念があって、しかしそこはさすがに運営者による清掃が日々なされるのだろうと思いきや、案外そんなこともなかったので、僕はだいぶ気分を害していたのだった。また納品のたびに、サブカル世界特有の、反体制の雰囲気を醸し出す一方で集団内の権威に滅法弱いという、卒業した大学でもさんざん味わった、あのしょっぱい気持ちを味わわされるため、もうこの時点ですっかり愛想は尽きていたのだった。
 そんなわけで、

 労働が午後からだったので、アクティブに午前中にお出掛けする。
 目的地は西荻窪のレンタルボックス。前回2ヶ月の契約延長をして、それがたしか6月2日までであり、それを過ぎるとまた面倒なので、発起して契約を終了しに行ったのだった。
 前回時からの清算では、ヒット君人形が2体ほど売れていた。でもそれだけだった。つまり10冊納品した「月刊少年 余裕」は、10冊とも手元に帰ってきたのだった。まあそうだろうな、とも思う。
 あと埃を被った消しゴムはんこなどを回収して終了。開始が去年の11月なので、7ヶ月か。1ヶ月1000円なので、材料費とか労力とか考えなければ、一応7000円程度は回収できたんじゃなかったか。まあいい勉強になりました。僕はやっぱりコミュニティとかが嫌いです。
(同年6月1日 KUCHIBASHI DIARY)

 僕の7ヶ月間のレンタルボックス活動は終了したのだった。よその家の子になったヒット君人形は、合計16体なのか。そして「月間少年 余裕」は、この世で1冊も僕の手元から離れていないのだな。愛しいな。結局7ヶ月間で、7ヶ月分の場所代はなんとか稼げたようだが、無を売っていたわけではないので、実際のところは大赤字だ。
 しかしまあ、レンタルボックスで黒字になるはずもない。もとい、基本的にハンドメイドで黒字を発生させることなど(ただレジンでキラキラしたものを固めてアクセサリーとして販売するようなやつを除けば)、ほぼ実現不可能だと言っていいと思う。
 ここからだいぶ経って、僕はminneを始め、でもそれもやめて、今はYahoo!フリマをやっている。それなりに経験も積んだ。今なら販売価格も含めて、もう少し賢くやれるだろうか。ホームページを見たら、店は今も健在だった。もちろんやるつもりはない。サブカルも、中央線も、西荻窪も、もはや地理的にも年代的にもすっかり遠い。あの手の文化は、本当にいまも在るのだろうか? マンガも、アニメも、オタクも、すべてが表舞台に取り込まれた今、サブカルってどうなっているんだろう。だいぶ饐えているのではないか、という気がする。