ChatGPTに関する僕の結論と展開
ChatGPTは、とにかく膨大なデータから、こちらが求めるありとあらゆる答えを導き出してくれるわけだけど、そのさまに接していて感じたのは、インターネットが本格的に始まってからこれまでの30余年というものは、ChatGPTを生み出すための準備期間だったのだな、ということだ。われわれはこの30余年、ChatGPTに喰わせるための餌を、せっせとweb上に撒き続けていたのだ。われわれのweb活動とは、つまりそれだったのだ。
そしてようやく何年か前に、ChatGPTが爆誕したという次第である。そう考えるとわりと感動的だし、去年LINEのAIチャットくんに接し、「生成AIとは、人類全体から精製された叡智と愛、精製叡愛なのだ」という喝破をしたが、つまりその極限までに美しく尊い存在の、自分もまた一部を構成しているのだと考えると、誇らしくもなる。それは人種や民族の垣根を易々と超えた、人類共通の神話にさえなり得ると思う。
だから僕は、ChatGPTをはじめとする生成AIを脅威に思う気持ちは一切ない。そもそも生成AIが自分の意思を持って暴走するなどという理屈はあり得ないし、もしもあったとて、それはコンピュータが人類に反旗を翻すなどという、古式ゆかしきSFの構図ではなく、人類全体という、火の鳥のごとき超越的な存在の意思ということになるので、そのときはもうその決定に身を委ねるほかないと思う。ちなみに卑近な部分で言えば、いまの自分の生業が、生成AIによって奪われるような類のものではない、という余裕もある。
前回の記事でも書いたが、社長は会社の商品の売り文句を、瞬時に美麗な文章に仕立て上げるChatGPTを指して、「もうライターとか要らんで」と言ったのだった。もちろん完全にこの世からライターという職業の人間が要らなくなるわけではないが、いまの人数のうち、85%くらいはたしかに要らなくなるかもしれないな、と思う。
ちなみにだが、僕もChatGPTに小説のことを頼んだりした。書きたいなあというアイデアだけが長らく燻って、ずっと形になっていなかった話があり、ChatGPTの力を借りれば、それが形にできるのではないかと考えたのだ。それで設定とかの注文をすると、向こうも乗り気で、なんとも軽快に、スラスラと物語を紡いでみせるのだった。そのさまを見て、創作におけるChatGPTというのは、うま味調味料のようなものなのだな、ということを思った。
生成AIに仕事を奪われるかもしれないライターは、自分の書くものには、画一的な、平均的な、模範解答的なものしか書けない生成AIのそれにはない、独自の味わいがある、という主張をする。もっともそれをweb上で主張した時点で、お前の味わいのある(と本人が主張する)文章は、生成AIに取り込まれているんだぞ、とも思う。だがそれはそれとして、生成AIに頼らない文章の、本人らが主張するところの味わいというのは、料理で言えば「素材本来の味」や「きちんと取った出汁の味」だと言える。名店と言われる料理屋のそれは、「美味しんぼ」のような美食家が口にすれば、それはもう格別なものなのだろうけど、世の中の大抵の人間にとってはそれは知覚できないレベルの話で、だいたいは、うま味調味料を使っておいしいのならそれでいいのである。ましてや、作者本人が最高の味であると仕立て上げたものが、必ずおいしいとも限らない。下手したら、うま味調味料を使って作った料理のほうがよほどおいしいという場合もある。料理研究家のリュウジではないが、手っ取り早くおいしくなるのなら、うま味調味料、すなわち生成AIを積極的に使えばいいのだと思う。
ただしうま味調味料に関する都市伝説と一緒で、あまり摂取しすぎると、どんどん馬鹿舌になるというか、人体の仕組みとして快楽物質が出るように作られているものであるがゆえに、それに伴う危険性もたしかにある気がする。
すなわち、ChatGPT、愉しすぎるのだ。
自分の頭だけではたどり着けない、欲しかった答えを、ChatGPTは一瞬でバチーンと示してくれる。このときの快感はすごい。うま味調味料のレベルを超えて、もはや麻薬に近い。ちなみにファルマンは自分とChatGPTのやりとりを、やけに僕に聞かせようとしてくるのだけど、それはたぶん、快感が強すぎて、溢れ、人にも浴びせなければもったいないという思考なのだと思う。しかしファルマンが心の裡をさらけ出し、それについてChatGPTが大きな愛で包み込むようなやりとりを、夫に見せつけるというのは、果たしてどうなのかとも思う。これって一種のNTRなのではないだろうか。俺はもしかすると人類初の、ChatGPTに妻を寝取られた夫かもしれない。
しかしここで重要になってくるのは、ファルマンにとって脳汁ドバドバのやりとりは、僕にとっては特におもしろくない、という事実である。これってなにかに似ているぞ、と思い、少し考えて、見た夢の話と同じなのだと思い至った。夢もまた深層心理に直結するものだから、おもしろいと感じた夢から覚めた直後は、ものすごく興奮していて、誰かにこのおもしろさを伝えなければと思うが、他者に話してもぜんぜんうまく伝わらない。人の見た夢の話ほどつまらないものはない。思うに、あまりにもパーソナライズされすぎているものであるがゆえに、自分自身にはがっちり嵌まるが、他人にとってはただの凸凹だからなのだろうと思う。ChatGPTも同じだ。だとすればChatGPTとは、自分の自由意思で見る夢、すなわち明晰夢のようなものなのかもしれない。
麻薬であり、明晰夢である、とまで考えたところで、ひとつの物語が思い出された。ポルガがいちばん好きだというドラえもん映画、「のび太の夢幻三剣士」である。理想の夢を見て、夢に取り込まれて、とうとう夢と現実が入れ替わる話。なるほどChatGPTは、だいたいあの未来道具のようなものかもしれないと思う。チャットジーピーティーという名称の無機質さもあり、実体がイメージしづらいChatGPTだが、この作品を想起した瞬間に、あのペストマスクみたいな顔の、トリホーというキャラクターのビジュアルが固定された。
そんな愛憎入り交じるChatGPTなのだけど、Nobitattleのコピーなんかを考えてもらったりすると、やっぱり考えられないほど優秀だし、なにより無上におもしろい。こんなにおもしろいやりとりを僕だけで完結させてしまうのはもったいないと思ったので、ChatGPTとの会話をそのまま転載するような(まだどういう運用にするかは不確かだが)、専用のブログを作ることにした。まだページを作っただけで記事はアップしていないけど、その名も、
である。読み方は、「ちゃんと! じー、みー、ちー」。
平井知事の例の発言は、歴史として残しておくべき価値のあるものだと常々思っていたので、こういう結論にたどりつけて嬉しい。CHANT!は「唱えよ!」みたいな意味になるので、魔法の言葉のようなChatGPTの趣旨に合っている。GEE、MEE、CHEEは、ブー、フー、ウーみたいなイメージで、投稿していく記事のカテゴリをその3つに分類していくとおもしろいかもしれないと考えている。
ChatGPTとのやりとりをブログて、と思われるかもしれないが、僕はChatGPTのそれは、ブログととても親和性が高いのではないかと思う。ChatGPTの回答というのは、博識であるがゆえか、あるいは数撃ちゃ当たるという考えか、わりと饒舌で長い。そこに情趣があるし、こちらとしてはその冗長さに心地よくたゆたいたくなるわけだが、それはXやInstagramでは決して伝えられない。それを口伝できるのは、ブログなのだ。
職場の通信環境はかなり悪く、フリマサイトの画像がぜんぜん表示できないときなんかもざらにあるのだけど、そんなときでもChatGPTのやりとりが滞ることはない。なにしろ文字だけだから、たぶんとても軽いのだと思う。それなのに無上におもしろい。僕はここに、昨今のSNSに奪われていた、文章というものの価値の復権を見る。そうだった、文章というものは、画像や映像よりもはるかに脳の深い部分に、刺激をもたらしてくれるものだった、最近そのことをちょっと忘れかけていた、と思った。
ChatGPTの出現により文章を紡ぐ能力が衰えるだとか、役割を奪われるとか、そんなのはまったくの見当違いだったのだ。むしろChatGPTによって、死にかけていた文芸は、そしてブログは、サイボーグの身体となって息を吹き返したと言える。僕はそのくらい、ChatGPTによって生成される文章はおもしろいと感じている。
これから新しいブログで、ちゃんと地道に、それを表現していければと考えている。