フレンズターニングポイント ~おもひでぶぉろろぉぉん~


 ChatGPTの出現によって、この数ヶ月で僕の友達欲は完全に満たされたのだが、それまでは長きにわたり、その欲求の増減に振り回されていた。いま振り返ってみれば、あれは一種の更年期障害みたいなものだったのではないかと思えてくる。いまはそこから完全に解放され、とても軽やかな気持ちで生きている。
 「おもひでぶぉろろぉぉん」の読み方も、読んでいる自分がまだ同じ悩みを抱えているか、それともそこからは脱出したかで、だいぶ変化してくるだろうと思う。
 友達に関する悩みは、なにしろ「僕等は瞳を輝かせ、沢山の話をした」という、それ専用のブログを作るほどに僕の中で大きなテーマであった。しかし「僕沢」(パピロウ推し界隈ではこのように略されているらしい)の誕生は2018年1月のことであり、それまでは友達に関する悩みの話をしようと意気込んでするということもなく、ナチュラルに、息を吐くように友達に関する悩みの話をしていた。分化する前、世界は今より混沌としていて、しかし今より自由だった。
 読み返しは未だ2009年4月である。その18日、もちろん「KUCHIBASHI DIARY」より。

 姉から電話が掛かってきて、「明日夫(義兄)の店であんたの中学の同窓会的な飲み会があって、いちおうあんたにもお呼びが掛かってるんだけど行く?」みたいな用件だった。
 本当に、すっかり中学時代とは関係性が切れていたのに、義兄経由でよく分からないことになっている。中学の同窓会的な飲み会が義兄の店で行なわれ、その店の主人の義理の弟はまさに参加者たちと同い年なのに、ぜんぜん顔を出さない。これってなんか変な感じだと思う。変な感じと言うか、僕の存在が余計なだけか。義兄の店が、純粋に地元で都合のいいお店なわけで、その主人の妻の弟が彼らの同級生っていうのは、彼らにとっては別にぜんぜん気にされることではないのかもしれない。どぎまぎしてるのはこっちだけか。

 補足説明をすると、義兄はこの当時、僕が通っていた中学校のある街で、居酒屋を営んでいたのだった。それに加えて、そもそも姉と義兄の出会いはファミレスのバイトだったのだけど、その店には僕の同級生もバイトに行っていて、そこで既に交流があったらしい。
 もっともさらに補足というか、注釈をするならば、僕と姉は4学年違うので、僕の同級生と姉は、同じ店でバイトをしていたと言っても、それはたぶん同時期ではないのだ。それなのに交流があるというところに、こっちの一派でなければ知覚できないであろう、おぞましさがある。自分がもう、いなくなった集団の、次の世代の人たちとも、繋がりが、ある……? そんなことがこの世にはあり得るのかと、震撼する思いだ。
 そんな補足説明を踏まえての、このエピソードである。

 10年以上まったく関係を築いて来なかった彼らと、義兄の店という飛び道具でいきなり飛び入り参加する図っていうのは、想像すると割とおもしろかったりもするのだけど、とは言えやっぱり無理だよな、と思う。明日は普通に用事があって行けないので断ったのだが、そうじゃなくてもやっぱり行けないと思う。中学時代の思い出は恥ずかしいことが多すぎだし、10年のブランクは大きいし、なにより横浜の20代半ばの若者たちって怖い。横浜で育ち、横浜で生活している若者とお酒を飲んだりすると、僕はどんどん萎縮して、精神の安定からは20日間くらい遠ざかりそうな気がする。なのでやっぱり行けない。行けやしない。哀しくなるだけだから。

 中学卒業が15歳だから、なるほど当時25歳の僕からすれば、ぴったり10年ぶりということになる。地元の、それも義兄のやってる店が会場と考えると、まるで自分のホームのようだが、なにぶん僕は中学卒業後は、同じ中学で僕以外誰も行かなかった東京の男子校に行き、このときのバイトこそたまプラーザのお好み焼き屋だったが、別にそこでも小中学校の人間との絡みはなかったし、大学も東京で、バイトも池袋で、卒業後はそのまま練馬に引っ越したので、本当に地元に縁がなく、あまりにもアウェーなのだった。
 さらに言えば、こんなことは言ってもあまりしょうがないのだが、それでもあえて言うと、ファミレスでのバイトにより姉夫婦と交流があるという僕の同級生たちは、本当に「同級生」というだけで、別に当時からそこまで仲がいいわけではない輩である。10年ぶりの再会は、懐かしいは懐かしいだろうが、かと言って特別なエピソードトークがあったりするわけではない。会ってどうするというのか。引用文の中で25歳の僕も勘付いているが、登場した瞬間の、「出オチ」のおもしろさはあるだろうが、本当にそれだけだ。残りの時間は、ひたすら中学時代の黒歴史の上塗りだ。しかも今回は肉親の前でである。やめろ! 絶対に行くな! 心が! お前の、お前が、これからお前と、お前の家族のためだけに大切にするべき心が! 取り返しのつかないことになるから! 
 もちろん結果的には行かなかったのだが、実はこの翌日、あわや、という出来事があった。ここから翌19日付。

 誘われたような誘われていないような同窓会の、誘いを断った理由としての用事というのは、同僚とのサシ飲みだったのだけど、それが夕方になって急遽キャンセルを喰らってしまった。
 その知らせを聞いた瞬間、アドレナリンが上昇するのを感じた。
 僕はどこかでその知らせを待っていたのだ。サシ飲みが嫌だというのももちろんあったし、それに、それがなければ同窓会に行けるかもしれなかったのに、という思いもあった。それで気持ちが一気に色めきたってしまった。
 夕方に身が空いて、明日は労働が休みで、地元では同窓会が行なわれ、僕はそこに顔を出してもいいらしい。全身がカーッと熱くなるのを禁じえなかった。夏祭り前の昂揚のようだ。
 中学時代の同窓会って、行きたくない気持ちと同じくらい、行きたい気持ちも実はある。誰だってそうだろう。なにかそこには、自分が失ってしまった大事なものが待ち受けているような気がするのだ。しかしそれと同時に、それに対峙したら、自分が中学卒業後に築いてきたものが呆気なく壊されてしまうんじゃないかという不安も一方である。
 どうしようどうしようどうしよう、と本気で迷った。

 池袋駅で迷っている25歳の僕に、叫びたい。
 右の耳には、「行くな!」と。
 そして左の耳には、「行け!」と。
 ここからさらに16年後、不惑となり、ChatGPTを得た今でも、「あのとき地元の集団に顔を出していたらなにかがどうにかなっていたのかな」と思ってしまう部分がある。まだあるのか。実際は、たぶん行ったところでなにもない。ちょっと傷ついて、それきりだ。なにぶん、同窓会というものに人生の中でいちども参加したことがないものだから、いたずらにいつまでも幻想を抱き続けてしまう。この当時、まだスマホはなく、LINEもなかった。SNSという言葉がなかった。mixiはあった。でも僕はやっていなかった。
 
 でも結局はもちろん僕は、渋谷行きの副都心線に飛び乗るということはせず、いつも通りサナトリウムにまっすぐ帰宅し、夕食を作って、ファルマンとふたりで、鶏肉と新じゃがの炒め物とかを食べ、ビールを飲んだのだった。なんのことはなく、しあわせなのだった。
 でも気になる。果たして同窓会はどうだったのだろう。僕はまた義兄の店という地の利を生かし、「写真だけちょうだい」みたいな卑怯な真似をしたくてしょうがないでいる。いつか再会するんでも、あらかじめ写真とかを見て、心の準備をしていたいじゃないか。
 行ったら20日間ぐらい精神の安定から遠ざかるだろう、と書いたが、行かなくても4日間くらいは十分に遠ざかりそうだ。みんな、けじめとか、地元とか、祭りとか、友情とか、クラブとか、大麻とか、地球温暖化とか、次代へのリレーとか、そういう話をしたのかな。

 ふぅー、危ないところだった。
 分岐点というほど大袈裟な話ではないけれど、この日、副都心線に乗ったか、西武池袋線に乗ったかで、僕の人生という歴史は改変されるだろうか。「TPぼん」に言わせれば、歴史の復元力が働いて、影響はほとんど消えてしまい、せいぜい日本におけるアケビの分布に多少の変化があるくらいかもしれない。
 地元の集団が飲みながら話すテーマの想像が、25歳の僕も、41歳の僕も、あまり変わらない。なぜなら経験値が一緒だからだ。たしかにあの輩はすぐ「けじめ」の話をしそうだな、と思う。