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謎の期間 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 というわけでウェブにアップしていない、2006年3月下旬から6月上旬までの手書き日記を読んでいる。しかしあまりハイスピードでは読み進められず、ただでさえ当初の目論見よりもだいぶ年数が掛かりそうな様相を呈している「おもひでぶぉろろぉぉん」だというのに、その上こんな寄り道まで始めてしまっては、ますます20周年に間に合わせることは困難事である。もう半ば(よりもだいぶ)、あきらめている。気長にやるしかない。  ハイスピードで読み進められない理由は、内容もさることながら、やはり手書きだというのがある。僕のことなので、字が読みづらいわけではない。そうではないのだが、手書きというのはそれだけで、活字よりも読むのに労力が要るのだと気づいた。たとえるなら生野菜や刺身のような感じ。火が通っていたらもっと量が食べられるのだが、生だと少ししか食べられない。手書きの日記を読むとは、つまりそういうことのように思う。  さて内容だが、カードの2枚目、3月25日付で、 「今日は卒業式なのであった。」  という記述がある。大学卒業の1週間前くらいに僕は引越しをしていて、卒業式へは新しい住まいから向かったようだ。4月からのことがなんにも決まっていない状況での卒業式って、いったいどんな気持ちだったんだろう。気持ちに関する描写はない。  でももちろん焦る気持ちはあったのだ。 「やらなきゃいけないことがなんなのかと言えば、そんなの言うまでもなく仕事である。と言うか仕事に就くための活動か、まずやるべきは。  そうなのだ。引越して独り立ちしておきながら、実はまだ就職はできちゃいないのだ。これはまずい。なにしろ収入がない。」  これが3月27日。  この翌日には、義母がファルマンの新しい住まいにやってきて、娘の社会人生活が始まる直前に、3日ほど滞在したようである。28日の夜は、池袋の鶏料理のお店にて、僕も一緒に3人で会食をしている。いまの自分がその記述を読むと、お前よく行けるな、俺だったらそんな状況で絶対に相手の子の親なんかと顔を合わせたくないけどな、と思う。若さってすげえや、と憧れの気持ちが湧く。  もっとも後ろめたさがまるでなかったわけではないようで、 「しかし平和で愉しい会食ではあったのだけど、若干の不気味さももちろんあったわけで。すなわち僕の就職が決まっていないという点において。」  とも書いている。な

その3ヶ月 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 「おもひでぶぉろろぉぉん」のために読んでいた「pee★pee★mur★mur」(はてなダイアリー・現在非公開)の、2006年4月24日付の記事で、 「「purope★papiro★cantabile」から引き継いで、合計800日ほど続いていた毎日更新を、このたびやめることにした」  という記述があり、なるほどその次の記事はと言えば、4月28日付だったりする。  日記の毎日更新は、「USP」の途中でやめたという印象があり、それまでは創始以来ずっと続いていたと勘違いしていたので、読んでいて少しびっくりした。  それで、別に毎日更新でないことそのものはぜんぜん構わないのだけど、2006年の春から初夏らへんというのは、大学を卒業して、就職をしなくて、それなのに実家を出て、ファルマンと5分の4同棲を始め、それでもGW明けとかになんとか就職するんじゃなかったっけかな、という期間で、たとえ毎日更新をしていたとしても、そこまで実生活のことを赤裸々には書かなかったろうけど、学生から社会人へと移行する、このあたりのしんどい日々、あんまり日記を残していなかったというのは惜しいことだな(しんどくて書けなかったというのもあるのだろうが)、と思った。  思ったのも束の間、その24日付の記事の最後に、「毎日とかは手書きの日記だけでいい。」という記述があり、ええー、とまたびっくりした。17年前の自分に、ジェットコースターのような体験をさせられた。  手書きと言えば、「俺ばかりが正論を言っている」である。しかしこの手書きブログの開始は2006年6月19日であり、どうやら「俺ばかり……」に画像としてアップし始める前のカード日記というものが存在するようだ、ということになった。もっとも存在するようだもなにも、情報カードに記す手書き日記自体は、高校生の頃にその習慣を始め、大学卒業までに何千枚も書いているのだ。それは実家に(たぶん)今もあり、たまに思い出しては、あれはいつどのタイミングでどう処理されるべきものなのだろう、と途方に暮れたりもする。しかし4月24日にやっているそれは、実家を出てからのものである。要するに、3月末に実家を出てから、6月19日に「俺ばかりが正論を言っている」を開始するまでの、約3ヶ月、前述の通りしんどくて、ウェブ上の日記さえろくに書けなかったその期間、誰の目にも触れることなく、しこし

MCN時代 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 実家を出て、ファルマンとの5分の4同棲を始めた22歳の僕。無職。一般的な会社の事務員であったファルマンは、毎朝ふつうに出勤し、夕方まで帰ってこなかった。その間、いったい僕は何をして日々をやり過ごしていたのだろう。ブログには当時あまり実生活のことは詳細に綴っていなかったので(綴れるような境遇ではなかったというのもある)、17年もの歳月を経た今となっては、もはやすっかり霧の中である。  コモディイイダの総菜の稲荷ずしを昼食としてよく食べていた、という断片のような思い出はある。その買い出しの際、若者だったのでポータブルオーディオ(たぶんSDウォークマン)で音楽を聴きながら歩いていたら、中島みゆきの「時代」が流れ、「あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ」という歌詞に、そうかもな、そうだったらいいな、と思ったことも、やけに印象に残って覚えている。幸い17年経った今、無職コモディイイダ中村橋店時代のことは、そんな時代もあったねと話せるようになった。  もっとも断るまでもなく、当時の僕に、この歌のような、報われないときだってあるさ的な切なさや哀しみの要素は一切なく、ただ真面目に就活をしなかったという怠惰、そしてそれでいて実家を出たという向こう見ずさが、この状況を招いていたわけで、同情の余地はなかった。  近所のコモディイイダに行く以外は、せいぜい駅前の貫井図書館に行くくらいで、あとの時間は、そこで借りた本を読むか、文章を書くか、あるいは鶴を折っていたんだろうと思う。東京で、圧倒的に時間があって、お金はなかったけど、有り余る若さがあって、なんかもっとこう、行動範囲を広げて活動的になれなかったものかな、と今の僕からするともどかしく思う部分もあるけれど、その考えってすごくおっさん臭いとも思う。藤子・F・不二雄短編の、「あのバカは荒野をめざす」みたいな感じ。その当時、時間があって、労働に縛られていなくて、太平楽に過していたかと言えば、もちろんそんなことはないのだ。ざっくり言えば社会からの逃避以外の何物でもないのだけど、でも当時の僕なりに、全身全霊で逃避していたんだと思う。だからその頃の振る舞いに文句を言うことはできない。  鶴を折ることは、就職が決まらないままの大学卒業を意識し始めたタイミングで始まったこともあり、象徴的な逃避で、千羽をはるかに超えて折り続けたあと、あまりにも飽

実家を出る ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 ゆるやかなペースで進む「 おもひでぶぉろろぉぉん 」は、2006年の3月下旬へと至り、僕は横浜の実家を出た。当時は当人なのでそこに至るまでの流れは自明だったのだろうが、こうして17年の年月を経て、本人ながら当人ではなくなってみると、あまりにも唐突だった。春に大学を卒業するということは書かれていたが、就職が決まったという話は一切なかったので(事実なかったのである)、実家でフリーター乃至ニート的な存在になるのが、この場合の一般的なパターンであったろう。それが急な独立。収入の当てがまるでないのに部屋を借りて、ファルマンと同じコーポの別の部屋に住むという、通称「5分の4同棲」を開始したのだった。  それから17年を経て、自分が子どもの親になって、思う。  大馬鹿者、と。  自分の子どもがそんなことをしたらすごく嫌だ。あり得ない。  でもたぶん、結果的にはよかったのだ。あのとき実家でフリーターのパターンを選択していたら、17年後の今も、同じ状態が続いていたのではないかという気がする。  しかしそういうことを考え出すと、今の自分の存在が、どこか頼りなく、うすら寒いもののように思えてくる。今の状態というのは、常道ではないほうの選択をした結果として得たものなのだと。もっともそんなことを言ったら、あの卵子とあの精子の組み合せで自分が出来ているのだということを考え、この世に確かなものなんて何もないのだ、という気にもなる。  しかしこの転居はとにかく、僕の人生の重大なターニングポイントだった。それは間違いない。懐かしい。中村橋だった。コモディイイダのすぐ近くだった。