投稿

5月, 2024の投稿を表示しています

「KUCHIBASHI DIARY」記事タイトル史 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 「 KUCHIBASHI DIARY 」というのはかなりストイックなブログで、前にも書いたが画像は基本的に載せなかったし、後日でもいいし1行でもいいから必ず1日につき1記事をアップすることをモットーとしていた(2007年元日から2011年3月まで)。若い頃というのは、得てして潔癖を求めがちなものであると思う。  もっとも毎日記事を上げることは、理念上の事情もさることながら、記事タイトルを年間通しての企画のようにしていたため、穴を空けると全体が総崩れになってしまう、というシステム上の事情によるところも大きかった。  どういうことかと言えば、まず2007年は、季題俳句であった。最初の7日間が「新年」で、そのあと1ヶ月間ほど「冬」の句、2月半ばから「春」の句、というふうに、毎日なるべくその時候に沿った句を作った。そのためこの1年が、これまでの人生で僕がいちばん歳時記を開いた1年だと思う。ちなみにタイトルの俳句と記事の内容は、基本的にまったく関係なかった。1年もやっていれば、なかなかいい句も生まれる。  十四のをとめ腹ぺこつくしんぼ (4月13日)  夕涼や美少女たちのランジェリー(5月23日)  干し柿を我へ投げつけあかんべい (10月24日)  など。もちろん基本的にすべて、少女美がテーマの句となっている。  続く2008年は、学年題を詠み込んだ短歌という趣向であった。学年題はもともと季題の向こうを張るものとして俳句用に編み出したものであり、それを短歌という似て非なる様式に用いたことは、とても画期的な試みであった。こんなことをした人間は、後にも先にも僕だけだろう(学年題俳句をした人間というのがこの世に数人しかないので)。  汗ばんでカーディガン脱ぎをとめごらブラウス相撲のはっけよいのこった (3月6日)  をとめごがお守り持ってる割合は83.7% (8月1日)  斉藤の恋バナ聴いて笑ってるウチの笑顔だれも見んでよ (11月4日)  ただこの企画をはじめた2008年初頭の時点において、学年題というものはまだ365個存在しなかったので、毎日更新のブログの記事タイトルで学年題短歌を詠みながら、その一方でどんどん新しい学年題を生み出す必要があった。このような経緯から「学年題歳時記」という企画が生まれ、さらには学年題6姉妹というオリジナルキャラクターの創出へと繋がってゆく。なん...

2008年、24歳、二次元ドリーム文庫の輝き ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 「おもひでぶぉろろぉぉん」は、2008年へと突入した。  2007年に突入した、という記事をここに書いたのが今年の2月4日なので、1年を読むのに4ヶ月近く使っていることになる。これだと、1年間で3年分しか読み返しが進まないことになるし、アキレスと亀のように、その1年間で、読み返さなければならない日記の絶対数も1年分増えるわけで、なんかいつまでも追いつける感じがしない。まあ実際、追いつけはしないのだ。書くよりもわずかでも速いペースで読んでいれば、それでもいつかは追いつくわけだが、「おもひでぶぉろろぉぉん」として、追いつきそうになった瞬間の、その先月に書いた日記を読み返すかと言えば、それはさすがにしないからだ。じゃあやめ時はいつなのかと言えば、もちろんそんなことは分からない。あるいはいっそ本当に追いついてしまって、日々の日記を書く「今」の僕と、過去の日記を振り返ってここまでやってきた「おもひでぶぉろろぉぉん」の僕が、合流し、そこから先はふたりがかりで日記を紡いでいく、というのもおもしろいかもしれない。もしかしたら日記とは、そんな二重らせん構造になっているのかもしれない。  2007年の暮れは、二次元ドリーム文庫のことをよく書いていた。この頃からこの先数年間、僕は本当に二次元ドリーム文庫に傾倒していて、レーベルとして刊行されるすべての単行本を購入し、読むほどであった。僕の姉は、自分がかつて所属していた学校や部活について、「私のいた時代が黄金時代」ということを言うような人物なのだが(失われた30年の世代なのにすごいと思う)、その姉ではないけれど、僕がいちばん嵌まっていたこの時期が、やっぱり二次元ドリーム文庫的にも黄金時代だったのではないかな、と思う。  いま版元であるキルタイムコミュニケーションのホームページを確認したところ、2023年の二次元ドリーム文庫の刊行数は3で、2024年はいまだ0である。美少女文庫のようにきっぱりと存在がなくなったわけではないけれど、もはや死に体であることは疑いようがない。とても切ない。  先日、NHKの朝の情報番組「あさイチ」で、「性体験がいちどもない人生」について特集をしていたので、録画して観たのだが、その中で「いま30代~50代くらいの世代は、精経験の充実こそが人生の充実であると信じ込まされてきた特殊な世代」みたいな説明があり、いろいろ考...

ファルマンとブログとすずと ~おもひでぶぉろろぉぉん~

イメージ
 読み返している日記の僕が、ファルマンのことをファルマンと呼びはじめた。  2007年12月10日の出来事である。  この前ふと思いついたので恋人に、 「俺がプロペパピローなんだから、ぱぴこさんはファルマンパピコにしたらどうだろう」  と提案したら却下された。ふたりの馴れ初め(所沢駅からプロぺ通りを抜けてファルマンの交差点を曲がった所にある彼女のマンションまでよく僕が尾行していた)的にも見事に合致しているというのに、残念でならない。  それでも僕だけはここでは彼女のことをファルマンと呼ぼうと思う。ブログでよく恋人や伴侶のことを「相方」と表記するのがあって、あれはもちろん嫌いなのだけど、それでは「ファルマン」と呼ぶのはどうなのかと言えば、これは言わばハウス加賀谷が松本キックのことを「キックさん」と呼ぶようなものだと思うので、なくはないと思う。分かりにくいか。  ちなみに松本ハウスは、1999年に活動を休止したそうだが、いつの間にか活動を再開していて、去年ドキュメンタリー番組で久しぶりにその姿を目にした(とても感慨深かった)。そして この呼び名たとえに出すのなら、松本ハウスよりも、母をキャサリン、妹をマーガリンと呼んでいたスザンヌのほうが適当なのではないかと、読んでいて思ったのだが、スザンヌがヘキサゴンでブレイクしたのはこの翌々年、2009年のことなのだった。ああ、記憶が、思い出が、(テレビを中心に)メリーゴーラウンドのように駆け巡る……。  それはそれとして、 つまりもう16年半くらい、僕はファルマンをファルマンと呼び続けていることになる。それってなんだかすごいことのような気もするし、あだ名というのはそういうものだ、とも思う。  ファルマンになる前は「恋人」と表記していたので、ここでファルマンにしていなかった場合、やがては「妻」という呼称になっていたことだろう。そしてそうである以上、ポルガやピイガのことも「長女」「次女」と呼んでいたのではないかと思われ、だとすればそれはだいぶ異なる世界線のわが家だな、という気がする。書く内容もわりと違っていたかもしれない。そちらの世界線にはそちらの世界線の魅力もあるのだろうが、やはり僕は自分の世界線がいちばん愛おしいので、ファルマンのことをファルマンと呼びはじめた、この ジョンバール分岐点としての2007年12月10日を、ファルマン記...

追憶の彼方の中村橋 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

   前の記事でも書いたが、2007年9月末日に引っ越しをしたのだった。このときの新居でわれわれ夫婦は結婚をし、ポルガを作ったので、これ以降の記事からは、現在と地続きのような気がする。もちろんこのあと震災や移住など、いろいろと劇的な変化はあるのだが、中村橋時代というのがあまりにも追憶の彼方にあるので、相対的に見てこっち側のような気がするのだった。  大学を卒業してから、約1年半続いた中村橋時代。大学卒業にあたり僕も実家を出ることにして、しかし僕の就職が決まっていなかったこともあって同棲は許されず、同じコーポの別室をそれぞれが借りるという形で始まった。そして、その時期がいつだったのか、そこまで精細なことはブログに記していないのではっきりしないが、途中でファルマンのほうの部屋は解約してしまい、新居に越すまでの何ヶ月間かは1Kにふたりで暮した。  もともと2部屋を借りていたというのも、同棲という形を回避するためのカムフラージュ的な側面があり、なにぶん交際している若いふたりのことなので、どうしたって寝食はどちらかの部屋で一緒に行なう、という感じで運営されていたのだ。そして、それなのに2部屋借りているのはバカらしい、という思いが徐々に高まり、そうすることにしたのだった。結婚するかどうか分からないのに同棲なんて、という親の心配も、1年が過ぎて、対面を重ねたりするうちに、だんだん弱まっていたんだろうと思う。  しかし数か月間とは言え、1Kにふたり暮しである。さすがだ、と思う。  新居への引っ越し当日の記事に、こういう記述がある。   作業員の人は、オプションのはずの洗濯機の設置とかもサービスでやってくれて、いい人たちだった。引っ越す前の住まいを見て「ここにおふたりで住んでたんですか!? さすがですね」と言ったのは、一体なにがさすがなのかよく分からなかったが、それでも概ねいい人たちだったと思う。  当時の僕は本当に分からなかったのだろうか。若さというのは、そんなにも無自覚で、厚顔無恥で、我武者羅なものであったか。  今の僕はもちろん分かる。同じ状況になったら、僕もまったく同じことを言う。  若い男女、さすがだ。  この若い男女には、子どもはもちろん、戸籍をひとつにしたというしがらみもないのだ。離れようと思ったら、とても簡単に離れることができるのだ。それなのに離れない。あまつさえ、1...

24歳のなった頃のことを ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 「おもひでぶぉろろぉぉん」が、24歳時代に突入する。23歳から24歳。大して変わらん。とにかく異常に若い。異常である。まだまだ大学時代の要素も暮しの中に残っていて、所属していたサークルの面々と江古田で飲んだりしていた。今はもう、物理的な距離が離れてしまったというのはもちろんあるけれど、仮に練馬界隈に住み続けていたところで、さすがに縁は切れていただろう。どうしたって、人間関係を保ち続けることに、マメなほうではないから。   数日前、友達のいない恋人と友達のいない僕で「どうすれば友達ができるか」ということについて話し合い、「相手のことを思いやる」とか「身腐慰に参加する」とか「ウサギさんと友達になる」とかの有益な意見が出されたのだが、その成果もなく相変わらず友達はできていない。以前までは「結婚式やりたーい」とかのたまっていた恋人だったのだが、最近になってお互いのあまりの友達のなさを自覚したのか、「レストランとかでパーティーみたいにできればいいよね……」と現実的なことを言うようになってきており、そのことだけはありがたいと思う。  身腐慰ってなんだろうと思ったら、mixiのことなのだった。陰湿だな。  「友達がいないということ」を話のテーマにしはじめたのもこの時期で、17年後の僕は知っているが、この葛藤はこの先もずっと続く。でもこのときはまだ、つながりを保とうと思えばいくらでも保てる位置に、かつての友人知人はいたわけで、そこへの労力を放棄しつつ、口先だけでそんなことをのたまう人間のもとからは、やはり人は去ってゆくのだと、客観的に見てしみじみと思う。こいつらと付き合ってもメリットはねえな、という態度で、相手の気持ちに思いを馳せない人間とは、本人が相手に対して感じるよりもよっぽど、付き合ってもメリットがないに決まっているではないか。  僕はこれから十数年間、承認欲求を満たしたいだけの、一方的に慕われたいだけの、まるで理屈になっていない「友達が欲しい」という感情に振り回されるのだ。この24歳の青年のその後を知っているだけに哀しいな。  それ以外のトピックスとしては、引っ越しがある。大学卒業後、当初は同じコーポの別の部屋を借りて住み、途中からは1室を契約解除して、1Kにふたりで住む形となっていた中村橋から、練馬および氷川台および平和台が最寄り駅といった感じのエリアにあった、わりと敷...