24歳のなった頃のことを ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 「おもひでぶぉろろぉぉん」が、24歳時代に突入する。23歳から24歳。大して変わらん。とにかく異常に若い。異常である。まだまだ大学時代の要素も暮しの中に残っていて、所属していたサークルの面々と江古田で飲んだりしていた。今はもう、物理的な距離が離れてしまったというのはもちろんあるけれど、仮に練馬界隈に住み続けていたところで、さすがに縁は切れていただろう。どうしたって、人間関係を保ち続けることに、マメなほうではないから。

 数日前、友達のいない恋人と友達のいない僕で「どうすれば友達ができるか」ということについて話し合い、「相手のことを思いやる」とか「身腐慰に参加する」とか「ウサギさんと友達になる」とかの有益な意見が出されたのだが、その成果もなく相変わらず友達はできていない。以前までは「結婚式やりたーい」とかのたまっていた恋人だったのだが、最近になってお互いのあまりの友達のなさを自覚したのか、「レストランとかでパーティーみたいにできればいいよね……」と現実的なことを言うようになってきており、そのことだけはありがたいと思う。

 身腐慰ってなんだろうと思ったら、mixiのことなのだった。陰湿だな。
 「友達がいないということ」を話のテーマにしはじめたのもこの時期で、17年後の僕は知っているが、この葛藤はこの先もずっと続く。でもこのときはまだ、つながりを保とうと思えばいくらでも保てる位置に、かつての友人知人はいたわけで、そこへの労力を放棄しつつ、口先だけでそんなことをのたまう人間のもとからは、やはり人は去ってゆくのだと、客観的に見てしみじみと思う。こいつらと付き合ってもメリットはねえな、という態度で、相手の気持ちに思いを馳せない人間とは、本人が相手に対して感じるよりもよっぽど、付き合ってもメリットがないに決まっているではないか。
 僕はこれから十数年間、承認欲求を満たしたいだけの、一方的に慕われたいだけの、まるで理屈になっていない「友達が欲しい」という感情に振り回されるのだ。この24歳の青年のその後を知っているだけに哀しいな。
 それ以外のトピックスとしては、引っ越しがある。大学卒業後、当初は同じコーポの別の部屋を借りて住み、途中からは1室を契約解除して、1Kにふたりで住む形となっていた中村橋から、練馬および氷川台および平和台が最寄り駅といった感じのエリアにあった、わりと敷地面積の大きな2LDKへと住まいを移したのだった。ここは今でもファルマンがたまに「あそこは私の東京の夢をかなえた場所だった」と言うほど、たしかにちょっとランクの高い感じの住まいだった。その家賃ははっきり言って分不相応だったが、子どもがまだいなく、ふたりとも働いていたから、なにしろ家にひたすらよくいる我々だし、ということで選んだのだった。ここにはファルマンがポルガを妊娠するまで住んだ。たしかに、限られた自由な時代に優雅な感じの家に住んだのは、いま思えばとてもよかった人生の一幕だったように思う。
 そのほか、8月に僕は2度目の島根行きをしているのだが、その前にファルマンと横浜の実家にも顔を出していて、ファルマンが僕の実家に来るのは、練馬と横浜という距離感なので、それまでにも何度かしていたようだが、このときに初めて、ファルマンと姉というふたりが顔を合わせていた。

 初対面と言えば、2年目の新機軸で今回は恋人と姉が初対面したのだった。これまでは恋人を連れて帰る日は実家に顔を出さないようにと言いつけてあったのだ。
 ふたりのそれぞれの性格は、島根と横浜という土地から想像されるオーソドックスな女性像を思い浮かべればそう間違っていないと思う。会話もそんな感じだった。

 とのことで、なんとなく言いたいことは分かる。というか、17年後の今のこのふたりが対面しても、距離感はこのときからまるで変化していないだろうと思う。姉と僕は、もしもクラスメイトだったら絶対に仲良くならないタイプだが、それはお互いが結婚し、それぞれが夫婦という単位になっても、まるで変わっていない。きっとずっと、恣意的に選び取った身の周りの人間関係にはあり得ない、あまりにも異質な存在として、親族という関係を続けていくのだろうと思う。
 ちなみに引用文からも分かるとおり、この時点で僕はまだファルマンのことをファルマンとは呼んでいない。意外だ。付き合った当初からそう呼んでいたくらいの気持ちだった。一方で「残念和尚のありがたい経文」という、一時期やけに濫用していたオリジナルの軽口言い回しは、この時期に誕生していた。懐かしいな。