「KUCHIBASHI DIARY」記事タイトル史 ~おもひでぶぉろろぉぉん~
「KUCHIBASHI DIARY」というのはかなりストイックなブログで、前にも書いたが画像は基本的に載せなかったし、後日でもいいし1行でもいいから必ず1日につき1記事をアップすることをモットーとしていた(2007年元日から2011年3月まで)。若い頃というのは、得てして潔癖を求めがちなものであると思う。
もっとも毎日記事を上げることは、理念上の事情もさることながら、記事タイトルを年間通しての企画のようにしていたため、穴を空けると全体が総崩れになってしまう、というシステム上の事情によるところも大きかった。
どういうことかと言えば、まず2007年は、季題俳句であった。最初の7日間が「新年」で、そのあと1ヶ月間ほど「冬」の句、2月半ばから「春」の句、というふうに、毎日なるべくその時候に沿った句を作った。そのためこの1年が、これまでの人生で僕がいちばん歳時記を開いた1年だと思う。ちなみにタイトルの俳句と記事の内容は、基本的にまったく関係なかった。1年もやっていれば、なかなかいい句も生まれる。
十四のをとめ腹ぺこつくしんぼ (4月13日)
夕涼や美少女たちのランジェリー(5月23日)
干し柿を我へ投げつけあかんべい (10月24日)
など。もちろん基本的にすべて、少女美がテーマの句となっている。
続く2008年は、学年題を詠み込んだ短歌という趣向であった。学年題はもともと季題の向こうを張るものとして俳句用に編み出したものであり、それを短歌という似て非なる様式に用いたことは、とても画期的な試みであった。こんなことをした人間は、後にも先にも僕だけだろう(学年題俳句をした人間というのがこの世に数人しかないので)。
汗ばんでカーディガン脱ぎをとめごらブラウス相撲のはっけよいのこった (3月6日)
をとめごがお守り持ってる割合は83.7% (8月1日)
斉藤の恋バナ聴いて笑ってるウチの笑顔だれも見んでよ (11月4日)
ただこの企画をはじめた2008年初頭の時点において、学年題というものはまだ365個存在しなかったので、毎日更新のブログの記事タイトルで学年題短歌を詠みながら、その一方でどんどん新しい学年題を生み出す必要があった。このような経緯から「学年題歳時記」という企画が生まれ、さらには学年題6姉妹というオリジナルキャラクターの創出へと繋がってゆく。なんとも精力的なことだな、と思う。愛しい。学年題6姉妹については、たぶんまた別の記事で詳しく掘り下げることになると思う。
その次の2009年は連句? 長歌? 的なもの。当時からそれが定義的にはなにになるのかあやふやだったが、いまだにはっきりしない。ついたちはいつも発句的な5・7・5なのだが、じゃあ偶数日は7・7なのかと言えばそうではなく、そのあとは日々7・5が続いていく。そしてみそか、すなわち末日だけが7・7で、そこでひと月ごとの作品が完結するという形式。
葉月から 始まる俺らの 夏旅行 まずは地元の 湘南の 波との会話を 愉しんで この波だよなって 俺思う いろんな海の 波と俺 たくさんしゃべって きたけれど やっぱり俺は 湘南の この波じゃなきゃ ダメなんだ 俺マジ思うんだ 故郷とか マジ尊くて リスペクト 親父お袋 マジ感謝 親孝行とか マジ大事 俺とかマジで そう思う 原先輩も 言ってたし 吉原さんも 言っていた 吉原さんとか マジ立派 吉原伝説 マジすごい 西高生が 8人で 学校攻めて きた時も 吉原さんだけ 逃げねえで 喧嘩したとか しないとか あるいはいつも 昼休み シロツメクサで 冠を 編んでいたのも 吉原さん でもそのすげえ 伝説も 死んじまったら 意味ねえよ 吉原さんは 海になった そのとき小波が やってきて 俺の頭に 冠を 一瞬かけて 過ぎてった 吉原さんが 笑った気がした
これが8月のタイトルを繋げたもの。このふわっとした企画は、年末の様子を垣間見る限り、当時の自分の中で失敗と捉えられていたようなのだが、いまこの記事を書くにあたりひと通りを読み返してみると、ひと月かけて毎日行き当たりばったりで繋げてゆくという手法による効果なのか、意外と独特の味わいがあり、この8月以外にもいい感じのものがいくつかあった。評価というのは、時間が経つと変化するものなのだな、と勇気がわいた(作者も評価者も勇気がわいた人もすべて自分なのだが)。
翌2010年は、ファルマンの詠んだ短歌を本歌取りした5・7・5という、愛というか、あるいは内輪ウケというか、はたまたプレイというか、これまたなんとも言えない趣向。当時はまだ「人間ごっこ」があって、「うわのそら」があったのだ。あったというか、バリバリなのだった(なくなる日が来るだなんて思ってもみなかった)。そこに公開されていた短歌を、夫の強権により、特に許可を得たということもなく拝借し、まったくリスペクトしない感じで、1年間パロり尽くしたものだった。
たとえばこうである。
犬の眼で君は気ままに夢をみて僕の未来に落書きをする
というファルマンの短歌が、こうなる。
未来犬やはり交尾は長いのか
意味が分からない。こういうのを、365回繰り返した。ちなみにオマージュ元の短歌は、記事の最後にいつも添付してあり、これがファルマンの短歌が非公開になった今となっては、意外と貴重だったりする。ファルマンの短歌でたしかあんなのあったよな……、と思ったときは、一部さえ分かればここから検索することができる(365首の中に該当する歌があればだが)。
その翌年2011年は、だいぶお花畑な企画で、中1~高3までの少女美を表現するために作り出した学年題の、0歳ver.という謎の趣向で、それというのも第一子であるポルガの誕生予定がこの年の1月下旬だったため、とにかくそのことで頭がいっぱいで、それでそういうことになったのだろうと思われる。
まあだだよ夕焼けあの日のクレアチニン (1月3日)
土曜日のベビーバスなり核家族 (2月5日)
初節句ぼんぼり娘のリボン哉 (3月3日)
など、まあひどい。あの尖っていた僕たちのパピロウが、こんなことになっちゃうの、という淋しさ。たぶんこの時期に離れていった読者も多いんじゃないか。ここで18億人くらい減って、いまのありさまになったのかもしれない。
結局この趣向は、3月11日に東日本大震災が起こり、毎日更新が途絶え、そこでモチベーションが大きく低下し、なにより0歳児を抱えての放射能禍という重たい気分を切り替えるため、4月からメインブログを「USP」へと刷新したことにより、尻切れトンボで終わった。終わってよかったと思う。
というのが「KUCHIBASHI DIARY」、4年と数ヶ月の記事タイトルの歴史。記事タイトルというのは、斯様にこだわろうと思えばどこまでもこだわれるし、どうでもいいと思えばいくらでもどうでもよくなる。Twitterやnoteなどに対してブログのなにがいいかと言えば、ブログにはブログの固有タイトルがある(つけられる)ところだ、ということをしみじみと思うが、記事ごとのタイトルに関しては、こうして4年がっつりやった結果、そこまで固執しなくてもいい部分なんじゃないかな、という結論に達した。数々の実験を繰り返した末に、いまの形があるのだ。なんだってそうだけど。
せっかくなので各年のタイトル一覧記事のリンクを貼っておく。
読むものが死ぬほどないとき、読んだらいいと思う。