2008年、24歳、二次元ドリーム文庫の輝き ~おもひでぶぉろろぉぉん~
「おもひでぶぉろろぉぉん」は、2008年へと突入した。
2007年に突入した、という記事をここに書いたのが今年の2月4日なので、1年を読むのに4ヶ月近く使っていることになる。これだと、1年間で3年分しか読み返しが進まないことになるし、アキレスと亀のように、その1年間で、読み返さなければならない日記の絶対数も1年分増えるわけで、なんかいつまでも追いつける感じがしない。まあ実際、追いつけはしないのだ。書くよりもわずかでも速いペースで読んでいれば、それでもいつかは追いつくわけだが、「おもひでぶぉろろぉぉん」として、追いつきそうになった瞬間の、その先月に書いた日記を読み返すかと言えば、それはさすがにしないからだ。じゃあやめ時はいつなのかと言えば、もちろんそんなことは分からない。あるいはいっそ本当に追いついてしまって、日々の日記を書く「今」の僕と、過去の日記を振り返ってここまでやってきた「おもひでぶぉろろぉぉん」の僕が、合流し、そこから先はふたりがかりで日記を紡いでいく、というのもおもしろいかもしれない。もしかしたら日記とは、そんな二重らせん構造になっているのかもしれない。
2007年の暮れは、二次元ドリーム文庫のことをよく書いていた。この頃からこの先数年間、僕は本当に二次元ドリーム文庫に傾倒していて、レーベルとして刊行されるすべての単行本を購入し、読むほどであった。僕の姉は、自分がかつて所属していた学校や部活について、「私のいた時代が黄金時代」ということを言うような人物なのだが(失われた30年の世代なのにすごいと思う)、その姉ではないけれど、僕がいちばん嵌まっていたこの時期が、やっぱり二次元ドリーム文庫的にも黄金時代だったのではないかな、と思う。
いま版元であるキルタイムコミュニケーションのホームページを確認したところ、2023年の二次元ドリーム文庫の刊行数は3で、2024年はいまだ0である。美少女文庫のようにきっぱりと存在がなくなったわけではないけれど、もはや死に体であることは疑いようがない。とても切ない。
先日、NHKの朝の情報番組「あさイチ」で、「性体験がいちどもない人生」について特集をしていたので、録画して観たのだが、その中で「いま30代~50代くらいの世代は、精経験の充実こそが人生の充実であると信じ込まされてきた特殊な世代」みたいな説明があり、いろいろ考えさせられた。失われた30年、氷河期世代、MD世代。モーレツ世代とデジタルネイティブ世代の狭間で、とかく不遇であるとされる我々は、性に関してもそのような圧迫を受けていたのかと。
そして二次元ドリーム文庫というものは、なるほどそんなわれわれ世代が支えていたものであり、われわれの性欲がひと段落したというか、学園に男子生徒が自分ひとりで困ってしまうシチュエーションのエロ小説を、さすがに積極的に必要とするような熱情は失ってしまったところで、残念ながら立っていられなくなったのだな、と納得がいった。下の世代のことは分からない。どうしていまどきの10代、20代は、学園に男子生徒が自分ひとりで困ってしまうシチュエーションのエロ小説を必要としないの? ととても不可解に思うが、その感覚はたぶん、めちゃくちゃおっさんっぽい発想なのだと思う。自分の上の世代、20年や30年前に作られたエロは、気持ち悪かったりダサかったりで、ぜんぜんエロく感じない。そういうものだ。自分だってそうだったじゃないか。
当時、24歳。毎月2、3冊ペースで刊行される二次元ドリーム文庫が、愉しみでしょうがなかった時代。今月はどんな女の子たちが俺のちんこに群がることになるのかな、と思いながら生きていた。本当にそんな感じだった。不思議だな、当時はぜんぜんそんなことなかったのに、間に歳月を置くと、きらきら輝いているように見える。もしかするとそれは、当時の風景が輝いているのではなくて、過去につながる視野の空気はとても汚れていて、あまりにも不純物が多いので、それらが視線の光で乱反射して、チカチカしているだけなのかもしれない。たぶんそう。思い出補整って、要するに視界の悪さだろうと思う。