ファルマンとブログとすずと ~おもひでぶぉろろぉぉん~


 読み返している日記の僕が、ファルマンのことをファルマンと呼びはじめた。
 2007年12月10日の出来事である。

 この前ふと思いついたので恋人に、
「俺がプロペパピローなんだから、ぱぴこさんはファルマンパピコにしたらどうだろう」
 と提案したら却下された。ふたりの馴れ初め(所沢駅からプロぺ通りを抜けてファルマンの交差点を曲がった所にある彼女のマンションまでよく僕が尾行していた)的にも見事に合致しているというのに、残念でならない。
 それでも僕だけはここでは彼女のことをファルマンと呼ぼうと思う。ブログでよく恋人や伴侶のことを「相方」と表記するのがあって、あれはもちろん嫌いなのだけど、それでは「ファルマン」と呼ぶのはどうなのかと言えば、これは言わばハウス加賀谷が松本キックのことを「キックさん」と呼ぶようなものだと思うので、なくはないと思う。分かりにくいか。

 ちなみに松本ハウスは、1999年に活動を休止したそうだが、いつの間にか活動を再開していて、去年ドキュメンタリー番組で久しぶりにその姿を目にした(とても感慨深かった)。そしてこの呼び名たとえに出すのなら、松本ハウスよりも、母をキャサリン、妹をマーガリンと呼んでいたスザンヌのほうが適当なのではないかと、読んでいて思ったのだが、スザンヌがヘキサゴンでブレイクしたのはこの翌々年、2009年のことなのだった。ああ、記憶が、思い出が、(テレビを中心に)メリーゴーラウンドのように駆け巡る……。
 それはそれとして、つまりもう16年半くらい、僕はファルマンをファルマンと呼び続けていることになる。それってなんだかすごいことのような気もするし、あだ名というのはそういうものだ、とも思う。
 ファルマンになる前は「恋人」と表記していたので、ここでファルマンにしていなかった場合、やがては「妻」という呼称になっていたことだろう。そしてそうである以上、ポルガやピイガのことも「長女」「次女」と呼んでいたのではないかと思われ、だとすればそれはだいぶ異なる世界線のわが家だな、という気がする。書く内容もわりと違っていたかもしれない。そちらの世界線にはそちらの世界線の魅力もあるのだろうが、やはり僕は自分の世界線がいちばん愛おしいので、ファルマンのことをファルマンと呼びはじめた、このジョンバール分岐点としての2007年12月10日を、ファルマン記念日と制定しようと思う。「この呼び方がいいね」って君が言ったから(この世界線に限り)十二月十日はファルマン記念日。
 ところでこの誉れ高きファルマン記念日の直前には、10月9日から12月8日までという2ヶ月間にわたり、僕はそれまで毎日更新を心掛けていた「KUCHIBASHI DIARY」の更新をストップさせていた。
 なんの前触れもなく、10月9日、突然こうである。

 283日目。
 夏の中盤以降くらいから考えていて、今日ついに決意した。
 「KUCHIBASHI DIARY」をやめる。
 閉鎖はしないのだが、更新はしばらくしない。少なくとも2007年中はしないと思う。
 せっかく季節をカテゴリにして毎日俳句を読んでいるのだから、あと3分の1も残ってないのだし365日やってしまえばいいじゃないか、そこで更新を止めればきれいじゃないか、とはちょっと思う。けれどやめようと決意した今の気持ちとして、この日記はそんなきれいな終わりにしてはいけないのだと思う。要するに僕はこの日記が嫌になってやめるのだ。嫌になった理由は、毎日時間が掛かりすぎたためである。割と同じことの繰り返しである日常で、毎日なんかしらのことを綴ってその日その日に固有の印象を与えてゆくことは、それ自体はとても有益だと思うのだけど、記録を残すことそのものが目的になって多くの時間を奪われ、その行為が目指そうとしている毎日の生活の彩りの創生が侵害されるのだとしたら、それはとても気色の悪い構図であるに違いない。前々から感じていたこのような疑問が、今回の引越しによってとうとう確信へと変わったのだ。引越しは引越しそのものが多く時間を取られる作業であるのに加え、あとあとから思い出す機会の多い時期であろうからと割と丁寧に毎日のことを綴った。この期間、本当に僕はそれだけをやっていた。記録のために記録をつけていた。僕は僕でない、僕を見ている違う第三者の僕で、僕としての創作活動はなんにもしていなかった。僕は自分が好きだけど、僕の作り出す世界を前にすれば、僕という個人は吹き飛んでしまってもいいと思う。僕は僕を第三者として眺めるのではなく、僕の作り出した世界を第三者として眺めたい。
 だから要するに、この日記は「失敗」だったのだと言えると思う。
 しかし失敗だからこそ、秋の途中という半端なタイミングで終わるそのダメさこそが、僕とその僕を眺めていた第三者の僕を悔いなく別離させる効果を持っているのではないかと思う。

 まずストレートな感想として、ウザい。自分でなかったら、こんなブログはここできっぱり読むのをやめるに違いない。
 言いたいことは分かる。日記を書くのは時間がかかる。活動をしたい自分と、活動内容を記録したい自分という二者のバランスを取るのはわりと難しい。17年後の今の僕は、このときの僕よりはだいぶこなれた(毎日更新ではないし)。それでも社会人の平日の夜の限られた自由時間で、「日記を書くだけで終わっちゃったな……」と少し切なく思ったりするときはある。しかし「おもひでぶぉろろぉぉん」をはじめたことも作用しているに違いないが、日記を書くということは、人生の中での行ないとして、だいぶ揺るぎのない価値を持つものだ、ということは確信できるようになったので、少なくとも今の精神状態の僕は、日記をやめるという発想には至らない。
 もっともこのときも、やめたのはあくまでも「KUCHIBASHI DIARY」の更新であって、「俺ばかりが正論を言っている」などはやっている。またその後のいろいろ、精神的につらかったりした時期には、Twitterをやったこともあった。どうも性分的に、完全に黙るということはできないようだ。
 2ヶ月後、12月9日に「KUCHIBASHI DIARY」は再開した。

 2か月ほど前に「少なくとも年内は書かないだろう」とかしゃらくさいことを書いたが、ものすごくサラッと日記を復活させてみた。「papiroの日記がないと、papiroの日記が読めない寂しさどころの話じゃなく、ネット全体の魅力が色褪せて見えるよ」と、誰にも言われないけど僕がそう思ったので復活させた。まあ今年もあと20日ぐらいなので、20日ぐらい書いても書かなくても流れ去るんだから、とりあえず時間がもったいないとかセコセコしたこと吐かずに書いてみようじゃんよ、とか思ったのだ。papiroのそういう柔軟さ、僕は好きだな。

 こちらもこちらで、もちろんウザい。ウザくて愛しい、24歳の僕。抱きしめたい。
 ところで僕がこの手の、「日記を書くの億劫だからやめようと思う」的なことをのたまうと、ファルマンはいつもすごく冷たかった。ブログという戦線から離脱する同輩に、優しい言葉など掛けてくれなかった。ファルマンという呼び名はこの時期に生まれていたが、まだ「ブログマザー」という二つ名は登場していない。鬼神のごときブログサイボーグ、それがファルマンだった。十数年後、そのファルマンがブログをやめ、僕が続けているのだから、未来というのは分からないものだとしみじみと思う。


 12月17日の「俺ばかりが正論を言っている」より。
 日記が、遺したことに価値を持つようになるのは、少なくとも何年か経ったあとなんだよ、と伝えたい。ただし伝えなくても、この子はこのあとも勝手に、つましい抵抗を続ける。ずっと続けるのだ。愛しい。字がかわいい。いつまでも愉しく生きてほしい。