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追憶の彼方の中村橋 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

   前の記事でも書いたが、2007年9月末日に引っ越しをしたのだった。このときの新居でわれわれ夫婦は結婚をし、ポルガを作ったので、これ以降の記事からは、現在と地続きのような気がする。もちろんこのあと震災や移住など、いろいろと劇的な変化はあるのだが、中村橋時代というのがあまりにも追憶の彼方にあるので、相対的に見てこっち側のような気がするのだった。  大学を卒業してから、約1年半続いた中村橋時代。大学卒業にあたり僕も実家を出ることにして、しかし僕の就職が決まっていなかったこともあって同棲は許されず、同じコーポの別室をそれぞれが借りるという形で始まった。そして、その時期がいつだったのか、そこまで精細なことはブログに記していないのではっきりしないが、途中でファルマンのほうの部屋は解約してしまい、新居に越すまでの何ヶ月間かは1Kにふたりで暮した。  もともと2部屋を借りていたというのも、同棲という形を回避するためのカムフラージュ的な側面があり、なにぶん交際している若いふたりのことなので、どうしたって寝食はどちらかの部屋で一緒に行なう、という感じで運営されていたのだ。そして、それなのに2部屋借りているのはバカらしい、という思いが徐々に高まり、そうすることにしたのだった。結婚するかどうか分からないのに同棲なんて、という親の心配も、1年が過ぎて、対面を重ねたりするうちに、だんだん弱まっていたんだろうと思う。  しかし数か月間とは言え、1Kにふたり暮しである。さすがだ、と思う。  新居への引っ越し当日の記事に、こういう記述がある。   作業員の人は、オプションのはずの洗濯機の設置とかもサービスでやってくれて、いい人たちだった。引っ越す前の住まいを見て「ここにおふたりで住んでたんですか!? さすがですね」と言ったのは、一体なにがさすがなのかよく分からなかったが、それでも概ねいい人たちだったと思う。  当時の僕は本当に分からなかったのだろうか。若さというのは、そんなにも無自覚で、厚顔無恥で、我武者羅なものであったか。  今の僕はもちろん分かる。同じ状況になったら、僕もまったく同じことを言う。  若い男女、さすがだ。  この若い男女には、子どもはもちろん、戸籍をひとつにしたというしがらみもないのだ。離れようと思ったら、とても簡単に離れることができるのだ。それなのに離れない。あまつさえ、1

24歳のなった頃のことを ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 「おもひでぶぉろろぉぉん」が、24歳時代に突入する。23歳から24歳。大して変わらん。とにかく異常に若い。異常である。まだまだ大学時代の要素も暮しの中に残っていて、所属していたサークルの面々と江古田で飲んだりしていた。今はもう、物理的な距離が離れてしまったというのはもちろんあるけれど、仮に練馬界隈に住み続けていたところで、さすがに縁は切れていただろう。どうしたって、人間関係を保ち続けることに、マメなほうではないから。   数日前、友達のいない恋人と友達のいない僕で「どうすれば友達ができるか」ということについて話し合い、「相手のことを思いやる」とか「身腐慰に参加する」とか「ウサギさんと友達になる」とかの有益な意見が出されたのだが、その成果もなく相変わらず友達はできていない。以前までは「結婚式やりたーい」とかのたまっていた恋人だったのだが、最近になってお互いのあまりの友達のなさを自覚したのか、「レストランとかでパーティーみたいにできればいいよね……」と現実的なことを言うようになってきており、そのことだけはありがたいと思う。  身腐慰ってなんだろうと思ったら、mixiのことなのだった。陰湿だな。  「友達がいないということ」を話のテーマにしはじめたのもこの時期で、17年後の僕は知っているが、この葛藤はこの先もずっと続く。でもこのときはまだ、つながりを保とうと思えばいくらでも保てる位置に、かつての友人知人はいたわけで、そこへの労力を放棄しつつ、口先だけでそんなことをのたまう人間のもとからは、やはり人は去ってゆくのだと、客観的に見てしみじみと思う。こいつらと付き合ってもメリットはねえな、という態度で、相手の気持ちに思いを馳せない人間とは、本人が相手に対して感じるよりもよっぽど、付き合ってもメリットがないに決まっているではないか。  僕はこれから十数年間、承認欲求を満たしたいだけの、一方的に慕われたいだけの、まるで理屈になっていない「友達が欲しい」という感情に振り回されるのだ。この24歳の青年のその後を知っているだけに哀しいな。  それ以外のトピックスとしては、引っ越しがある。大学卒業後、当初は同じコーポの別の部屋を借りて住み、途中からは1室を契約解除して、1Kにふたりで住む形となっていた中村橋から、練馬および氷川台および平和台が最寄り駅といった感じのエリアにあった、わりと敷

文章を書くことと、宿敵の出現について ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 今年の大河ドラマ「光る君へ」は平安貴族の話なので、日記というものが話にけっこう登場する。  少し前の放送で、主人公のまひろ(紫式部)が、「蜻蛉日記」の筆者である藤原道綱母と対面し、感想を伝えている場面があった。それを見て、立場ある人間の赤裸々な内容の日記を、面識のない同時代の人が読んでいるのってどういうことなんだろうと疑問に思い、ネットを見たら、同じ質問している人がいて、答えも寄せられていた。  要するに私小説なのだと。  なるほどそういうことかと、すとんと腑に落ちた。  日記と私小説の垣根は低い。両者の重なっている部分はマーブル状になっていて、明確な線引きをすることはできない。私小説と、名称は小説のほうに寄っているけれど、実態は日記に限りなく近いだろうと思う。ちなみに、当世流行りの2.5次元ミュージカルというものがある。実際に観たことがないので、2次元作品を題材にしただけの3次元だろうと感じるが、もしかすると生で鑑賞すれば、脳内で特殊な補整が起って2次元世界のように思えるのかもしれない。日記と私小説と小説の関係は、それと少し似ている気がする。  さて、17年前の自分の日記である。こちらは私小説ではなくどこまでも日記のはずなのだが、しかし17年という時間の隔たりが、日記に登場する「僕」を、もはやこの僕とは他人の、それこそ次元の違う別世界の人物のように思わせる作用があるようで、そんな歳月をかけた熟成の結果、まったく予期していなかった味わいが生れたというような、そんな感じがある。  当時の自分の意識の高さもまた、今から見ると眩しくて、物語の登場人物めいているのだった。やはりまだ大学を卒業して間もなく、日記でも私小説でもなく、小説を書こうとしている様子なんかも端々から窺え、気概がある。もちろん今の僕だって、完全に枯れてしまったわけではないのだけど、若い頃には「気概」と呼ばれていたものは、ある年齢を過ぎると、性質はそのままでも「頑迷」へと呼称が変わってしまうのだ。  なにしろ毎日更新である。「KUCHIBASHI DIARY」を毎日更新しつつ、「俺ばかりが正論を言っている」をやったり、ヒット君人形を作ったり、さらにはまったく別のブログをやったりもしている(ただしこの頃の泡沫ブログたちは、リンクをクリックしても「404」と言われるばかりで、どんなコンセプトのブログだったのか

手芸をはじめる奇蹟の瞬間 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

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 「おもひでぶぉろろぉぉん」をしていたら、2007年の4月に、大学を出たあとも唯一つながりがあった、もともとファルマンのゼミ仲間である文芸学科の女性が、ファルマンと僕が暮していたアパートに遊びに来ていて(ちなみに彼女は当時もう妊婦であり、このときの娘はもう高2だ)、われわれふたりとものブログの読者であった彼女がこの日、あとから見るとかなり重要な発言をしていた。  恋人の友達である妊婦が遊びに来る。彼女は僕の期待通りにヒット君に喰い付いてくれていたので嬉しい。すっかり言い忘れていたけれど僕のサイトって、ほとんど彼女の子どもの胎教のためだけにやっていると言っても過言じゃない。彼女の子どもに「ところでミッキーとクチバシってどっちがメジャー?」と疑問を持たせるのが僕の夢だ。また彼女は「ヒット君のぬいぐるみが欲しい」と言っていたそうで、(なるほどな)と思った。クチバシは2次元向きのデザインだが、ヒット君は3次元が割といけるかもしれない。グッズの参考にしよう。  キャラクターのグッズ展開というのは、この出来事の前から頭にあって、クチバシや、それ以外のikimonoなどを、シールや缶バッジにしたりしていた。またグッズではないけれど、立体造形という意味では、クチバシとリュウさんを紙粘土で作ったこともあった。  しかし手芸という発想はなかった。  それ以降の人生から、昔のことを振り返ったとき、記憶が勝手に改竄されて、大学生の僕もわりとちまちまと針仕事をしていたような気さえしてくるのだが、そんな事実は一切ない。中学の家庭科の授業からこのときまで、僕は縫製なんてまるでしないで生きていた。  だとすればこのときの彼女の発言って、かなりとんでもないものだということにならないか。  このあと5月に、  ジュンク堂に行く。後藤三枝子「手縫いのきほん おさらい帖」(小学館)と、きっかけ本54「フェルトのマスコット」(雄鶏社)と、レディブティックシリーズno.2537「改訂版 手のひらサイズのぬいぐるみ」(ブティック社)の3冊を購入。やろうと思ったら急に熱が高まってきた。どうして僕はいままで鶴を折っていたのだろう。針を通していればよかったじゃないかと後悔する。  という記述があり、さらにはこの翌日、  出勤前に手芸用品を買い集める。昨日買った本で、裁縫を始めるにあたりとりあえず買うべきものをリストア

偏狭ブログ史観 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 2007年前半は、seesaaで「KUCHIBASHI DIARY」をスタートさせた一方で、まだ細々と、はてなの「pee★pee★mur★mur」もやっていたので、僕の人生の歩みを振り返る「おもひでぶぉろろぉぉん」としてはそちらもチェックしなければならないのだけど、その読み返していた自分のブログから、ふと気が向いて、ものすごく久しぶりに、はてなブログの元締めページみたいな所を覗いてみた。たぶん、10年以上ぶりだと思う。そうしたら、前に見たときとほとんど印象が変わらない世界が展開されていたため、ちょっと衝撃を受けた。  ブログにとってこの10年というのは、SNSの台頭によって、怒涛の10年だったのではないのか。時代遅れにならないためにあがき、もがき、もともとの理念などすっかり見失ってしまうような10年であったと。なぜか勝手にそう信じ込んでいたのだが、はてなブログの不変さを目の当たりにして、決してそんなことはないのだと悟った。ユーザー数こそ、おそらく10年前よりも大幅に減ったに違いないが、SNS全盛の時代にあっても、頑なにブログにすがり続ける人間というのは一定数いるのだ。そしてその一定数というのは、「バイク乗りの平均年齢は10年前に較べて10歳上がった」というジョークと一緒で、経過した歳月がそのままユーザーの平均年齢に上乗せされていることだろうと思う。だからブログは、あと4、50年は紡がれ続ける。それ以降は、ユーザーが死滅するので、なくなると思う。  SNSとブログの大きな違いは、読者の有無だ。ブログって、ほら、読者がいないものじゃないですか。ブログは書くものであって、読むものではない。ブログを読む人間というものは、たぶんこの世に3人か4人くらいしかいないと思う。ブログに関わる人間、あとはみんな書き手。そしてその書き手たちは、もちろん他人の書いたブログなど読まない。ブログってそういうものなんだよな、ということをしみじみと思う。  ファルマンが今年の初めから開始した、台帳的な名称の某サービスは、ブログのような、SNSのような、とても微妙な立ち位置で、持ち前の不寛容さから、僕はとりあえず拒絶していた。ファルマンは結局2ヶ月ほどで投稿を止めてしまい、どうやら今回もブログマザーの復活とはいかない様子だが、ファルマンがいくつか記事を投稿するさまを眺めて察したこととして、あれはや

ヒット君と私 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 「おもひでぶぉろろぉぉん」において、とうとうヒット君が誕生していた。   初出は「俺ばかりが正論を言っている」で、日付は2007年1月12日 。  たしかファルマンと一緒にやっていた落書きの中で、生まれたのだったと思う。だから描いた日とアップした日に、もしかしたら数日の隔たりがあるかもしれない。そこはもう定かではないので、ヒット君の誕生日は1月12日ということにする。期せずして娘たちの誕生日のちょうど半ばである。日付こそ厳密ではないが、ここにアップした画像が、本当にそのときに描いたものだということはしっかり覚えている。なのでこれが正真正銘のヒット君第1号ということになる。最初はこんなに脚が長かったのか。これは「ドラえもん」とまったく同じ現象だな。  ちなみに、自身のセリフの中で、「人じゃあないんだよ ヒット君だよ」と「君」を漢字で記しているが、その横に浮かぶキャラクター紹介の文字列では「ヒットくん」とひらがなであり、当初から表記の揺らぎがある。この揺らぎは今もなお継続している。僕なんかは生みの親なのだから、「ヒット」と愛を込めて呼び捨てにしたっていいはずなのだが、なぜか生誕から17年経った今でも頑なに「君」か「くん」を付けて呼んでいる。  それで思い出したが、僕の父は僕のことを君付けで呼んでいた。そのことに関して、父はそののち不倫をし、われわれ一家を捨ててゆくわけだが、要するにそうなる前から家族との付き合いが引け腰だったということだな、と思っていたのだが、自分のヒット君に対する接し方から鑑みるに、まあそうとも限らないのかもな、などと思った。なんとなく「君」を外すタイミングを逸してしまうということはある。ただし父は、離婚から十数年後に姉や僕の結婚式で再会したとき、なんか普通に僕のことを呼び捨てで呼んできたので、家族だった当時の「君付け」に違和感があり、そしてこの状況でのいきなり呼び捨てにも違和感があるので、つまりなんか、そういう情操が欠けている人なのだな、ということを思った。  話が横道に逸れた。僕とヒット君の話である。この初登場からヒット君はちょいちょい「俺ばかり」に登場するが、その存在を決定的なものにしたのが、 この年の3月20日から同じく「俺ばかり」で始まった連作4コマである 。ヒット君と人志少年という伝説のタッグはここから始まったのだ。ちなみにシリーズ何作か

以前と以後の、本を読むということについて ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 17年前の日記を読んでいると、本のことをすごく書いていて驚く。買ったり、借りたり、すごくしている。  そこに記されている本たちは、存在を覚えているものもあれば、完全に忘れているものもある。そして内容に関して言えば、ほぼ覚えていない。でも内容を覚えていない以上、今となっては読んだ意味などまったくなかった、ということにはならない。  読書とは食事みたいなもの、などと言うと、かっこつけてる、うざい、読書家の自分にアイデンティティを持った、ビブリオバトルとかやっちゃう、痛々しい奴みたいになってしまうが、彼らの発言の狙いである、「俺にとって読書は栄養補給だから、できないと飢えて死んじゃうんだよね」という意味では決してなく、17年前に食べたカレーライスは、覚えていないし、物質としてもう僕の体にまったく残っていないだろうけど、でもまあそのときそれを食べたことで(他のメニューでもぜんぜん構わなかったにせよ)、大げさに言えば今の状態の僕があるのだという、なんかそんな感じだ。バタフライ効果とも違うので、カレーライス効果とこの感じのことを名付けようか。  ただし時間であったり経済状況であったり、食べる物がいつだってよりどりみどりの人生ではなかった(そんな人生あるのだろうか)ので、あなたがこれまで食べてきたもので今のあなたが作られているんだよ、そして同じように、読んできた本で今のあなたの思考が形作られているんだよ、なんてことをしたり顔で言われると、そんな乱暴な物言いがあるか! と言いたくもなる。いったい僕は何が言いたいのか。  それにしてなぜ17年前の自分は、そんなに本を読んでいたのか。もとい読めていたのか。  書店員だった、というのはもちろんある。そのため本を読むことは仕事の一環だった、ということでは、しかしない。勤めていたのはそういう書店ではなかったし、なにより僕は、本が好きであることを標榜する人間というのが好きではないので、その理念の下、当時はちょうど「書店員によるPOPブーム」みたいなところがちょっとあったけれど、勤めていた6年半で、ついに1枚もPOPというものを作らなかった。それでいて、入荷した本の中で気になったものは、よく家に持ち帰って読んでいた。もう会社がなくなったので白状するが、勤務していた書店には、店員は本を2冊借りて帰ってよい、という制度があった。もちろんきちんと記録