偏狭ブログ史観 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 2007年前半は、seesaaで「KUCHIBASHI DIARY」をスタートさせた一方で、まだ細々と、はてなの「pee★pee★mur★mur」もやっていたので、僕の人生の歩みを振り返る「おもひでぶぉろろぉぉん」としてはそちらもチェックしなければならないのだけど、その読み返していた自分のブログから、ふと気が向いて、ものすごく久しぶりに、はてなブログの元締めページみたいな所を覗いてみた。たぶん、10年以上ぶりだと思う。そうしたら、前に見たときとほとんど印象が変わらない世界が展開されていたため、ちょっと衝撃を受けた。
 ブログにとってこの10年というのは、SNSの台頭によって、怒涛の10年だったのではないのか。時代遅れにならないためにあがき、もがき、もともとの理念などすっかり見失ってしまうような10年であったと。なぜか勝手にそう信じ込んでいたのだが、はてなブログの不変さを目の当たりにして、決してそんなことはないのだと悟った。ユーザー数こそ、おそらく10年前よりも大幅に減ったに違いないが、SNS全盛の時代にあっても、頑なにブログにすがり続ける人間というのは一定数いるのだ。そしてその一定数というのは、「バイク乗りの平均年齢は10年前に較べて10歳上がった」というジョークと一緒で、経過した歳月がそのままユーザーの平均年齢に上乗せされていることだろうと思う。だからブログは、あと4、50年は紡がれ続ける。それ以降は、ユーザーが死滅するので、なくなると思う。
 SNSとブログの大きな違いは、読者の有無だ。ブログって、ほら、読者がいないものじゃないですか。ブログは書くものであって、読むものではない。ブログを読む人間というものは、たぶんこの世に3人か4人くらいしかいないと思う。ブログに関わる人間、あとはみんな書き手。そしてその書き手たちは、もちろん他人の書いたブログなど読まない。ブログってそういうものなんだよな、ということをしみじみと思う。
 ファルマンが今年の初めから開始した、台帳的な名称の某サービスは、ブログのような、SNSのような、とても微妙な立ち位置で、持ち前の不寛容さから、僕はとりあえず拒絶していた。ファルマンは結局2ヶ月ほどで投稿を止めてしまい、どうやら今回もブログマザーの復活とはいかない様子だが、ファルマンがいくつか記事を投稿するさまを眺めて察したこととして、あれはやはりブログではない。なぜならユーザー同士のいいね合戦、ハート合戦のようなものが活況だからで、ファルマンは「本当に読んで評価してるのか分かったもんじゃないよ」と言うが、やっぱりあの感じはSNSのそれだ。
 ユーザーごとのページに固有のタイトルがあるわけではない、というのもいただけない。「パピロウせっ記」なり「おこめとおふろ」なり、自分の考えたタイトルのない場所に文章を書く気持ちって、僕にはまるで理解できない。TwitterがXになってみんなが大騒ぎしたのも、各人がタイトルを持っていなかったからだろう。というか、みんながTwitterという共通のタイトルでやっていたので、ある日急にタイトル変更を告げられて困ったのだろう。それはたしかに困る。俺はそのタイトルでこれをやっているのだから、という話だ。Xじゃあ、ぜんぜん俺のこの内容に合わないんだよ、と。気持ちは分かる。XなりInstagramなりnoteなり、そこが相容れない。誰もが設備の整ったタワーマンションに住みたいわけではない。不便でもいいから、自分だけの城を構えたいという気持ちだってある。
 話がうまくまとまらない。特に伝えたいことがあるわけでもない。ただの放言である。そもそも誰も読んでいないのだから、こんな断りを入れる必要もない。ちなみにだが、Bloggerはいい。Bloggerのホームみたいなページが存在せず、人気ランキングであるとか、公式ブロガーであるとか、そういう趣向が一切ないのが本当にいい。Bloggerの他の人のブログというものを、完全にいちども目にしたことがないものな。もしかして俺しか使っていないんじゃないか、Googleが俺のためだけにやってくれてるんじゃないかとさえ思う。ただしだからといってBlogger最高、というスタンスを取るつもりもない。とにかく、自分の所属する共同体に誇りを持ちたくない。