MCN時代 ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 実家を出て、ファルマンとの5分の4同棲を始めた22歳の僕。無職。一般的な会社の事務員であったファルマンは、毎朝ふつうに出勤し、夕方まで帰ってこなかった。その間、いったい僕は何をして日々をやり過ごしていたのだろう。ブログには当時あまり実生活のことは詳細に綴っていなかったので(綴れるような境遇ではなかったというのもある)、17年もの歳月を経た今となっては、もはやすっかり霧の中である。
 コモディイイダの総菜の稲荷ずしを昼食としてよく食べていた、という断片のような思い出はある。その買い出しの際、若者だったのでポータブルオーディオ(たぶんSDウォークマン)で音楽を聴きながら歩いていたら、中島みゆきの「時代」が流れ、「あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ」という歌詞に、そうかもな、そうだったらいいな、と思ったことも、やけに印象に残って覚えている。幸い17年経った今、無職コモディイイダ中村橋店時代のことは、そんな時代もあったねと話せるようになった。
 もっとも断るまでもなく、当時の僕に、この歌のような、報われないときだってあるさ的な切なさや哀しみの要素は一切なく、ただ真面目に就活をしなかったという怠惰、そしてそれでいて実家を出たという向こう見ずさが、この状況を招いていたわけで、同情の余地はなかった。
 近所のコモディイイダに行く以外は、せいぜい駅前の貫井図書館に行くくらいで、あとの時間は、そこで借りた本を読むか、文章を書くか、あるいは鶴を折っていたんだろうと思う。東京で、圧倒的に時間があって、お金はなかったけど、有り余る若さがあって、なんかもっとこう、行動範囲を広げて活動的になれなかったものかな、と今の僕からするともどかしく思う部分もあるけれど、その考えってすごくおっさん臭いとも思う。藤子・F・不二雄短編の、「あのバカは荒野をめざす」みたいな感じ。その当時、時間があって、労働に縛られていなくて、太平楽に過していたかと言えば、もちろんそんなことはないのだ。ざっくり言えば社会からの逃避以外の何物でもないのだけど、でも当時の僕なりに、全身全霊で逃避していたんだと思う。だからその頃の振る舞いに文句を言うことはできない。
 鶴を折ることは、就職が決まらないままの大学卒業を意識し始めたタイミングで始まったこともあり、象徴的な逃避で、千羽をはるかに超えて折り続けたあと、あまりにも飽きて、見境をなくし、もう鶴ならばなんでもいいと発想したのか、最終的に、貫井図書館で借りた折り紙の本で紹介されていた、1枚1枚の折り紙でドットのごとき同一のパーツを作り、それを組み立てて巨大な鶴のオブジェを作る、ということまでした。数日かけて作り上げたそれを、仕事を終えて帰宅したファルマンに見せたら、泣き笑いのような顔をされた。あれはわりと短命に家から消えた気がするけれど、どうしたのだったっけ。これから十数年後、また転職関係でゴタゴタした際、数度の引越しについてきた二千羽超の折り鶴もファルマンに(無断で)棄てられたことを思えば、このときも無言でファルマンの手にかけられたのかもしれない。ファルマンにとって鶴は、慶事ではまったくなく、伴侶の無職のシンボルなのかもしれない。
 あとこの4月に「学年題俳句1000詠」がスタートしていて、このタイミングだったのかー、と思った。この面倒くさい企画も、なるほど逃避の一環だったのだな、と得心がいった。ちなみに「学年題俳句1000詠」、トラックバックが肝の企画なのに、この十数年の間に仕様が変更されたのか、トラックバックが表示されなくなっていて、それでもログインすれば確認できると思ったのだが、はてなやseesaaはなんとかなったのに、このgooブログはいよいよパスワードが分からず、そのためトラックバック元が一切分からなくなってしまった。残念すぎる。あんなに盛り上がった企画だったのに。合計で2万人くらいいただろう参加者に、ひとりひとり謝罪して回りたい気持ちだ。
 それにしても僕はいつ就職するんだっけな。なかなか気配がないな。