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納涼・母の怖い話

   この初夏に実家では、ちょうど1年前のわが家にもあったような、「振り返ってみたらあれはただの風邪ではなくコロナだったんだろうなあ」という事象が起ったそうで、もちろん大事には至らなかったのだけど、祖母にはいわゆる典型的な症例のひとつである、「食べ物の味がしない」が表れたのだそうだ。  それはタイミングとして、祖母がいつも近しい人に送る桃の出荷シーズンのことであり、自分用にも購っていた祖母は、届いたそれをひとつ食べて、「今年の桃は味がしない」という感想を抱いたという。それは振り返ってみたらコロナだったからにほかならないのだけど、まだそれ以外の、発熱や倦怠感なども出ていない段階だったので、そんな可能性には思い至らなかった。その話を聞いて合点がいったのだけど、山梨の業者から発送された桃は、同時にわが家にも届き、届いた晩にとりあえずお礼の連絡をしたところ、その際に祖母は、「味はどうだったか」とやけに気にしていた。しかしそのときはまだ冷蔵庫に入れただけで手を付けていなかったため、問いかけに答えることはできなかった。折悪しく、今年の規格外の暑さのためか、届いた十数個の桃のうち、箱を開けた時点で2個ほどグズグズになっていたものがあり、祖母が桃の品質を気にしているのはそのあたりの不安からだろうと、こちらも勝手に解釈したのだった(もっとも年寄りというのは、果物およびトウモロコシなどについて、糖度というものを異様なまでに気にする生きものなので、送った果物の甘さを気にするのはいつものことだとも言えた)。  そのあと祖母は体調を崩し、やがて回復して、「振り返ってみたらあれはコロナだったからか」となり、それから食べた桃はきちんと味がしておいしかったという。めでたしめでたし。  さて、この他愛もない一連の話に、ひとつだけ少し奇妙な点がある。どこだか分かりますか。  それは、コロナ感染後に桃を食べて「今年の桃は味がしない」と気を揉んでいた祖母は、回復後に食べた桃はきちんと味がしたので、ようやく安心することができた、という点である。だって祖母は独り暮しではない。実の娘、すなわち僕の母と暮しているのだ。母もまた祖母に前後して「振り返ればコロナ」だったとしても、祖母が食べて「今年の桃は味がしない」と言った桃を、「どれどれ」と賞味して、そのとき母に味覚があったかどうかは別として、感想を伝えてやることく

結婚するって本当ですか ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 そのあともうひとつの目的で、区役所に行く。これまで2年に渡ってそのままにしていた、住民票を移すということをする。これはなぜかと言えば、なんかもうそろそろ結婚するかもしれないわけで、その伏線ということである。  2008年のブログを読み進めていたら、いきなりこんな記述があったので驚いた。  労働が休みで実家に帰った6月の出来事である。  ファルマンと僕はこのあと2008年の8月8日に、練馬区役所において入籍をするので、事前に住民票を移しておくのは当然で、伏線というのもたしかにその通りだ。  驚くポイントは、「なんかもうそろそろ結婚するかもしれないわけで」という言い草である。  ここまできちんと年代を追って読んできたので分かるけれど、ファルマンと僕が結婚をするという話は、僕のブログにおいて、このとき初めて出たはずである。この前年の9 月に、それまでの変な形の同居状態から、大手を振っての同棲生活へと移行しているわけで、結婚という流れは順当と言えば順当だが、しかし同棲しても結婚に至らないカップルなんていくらでもいる。われわれがどっちに転ぶのかは、この時点まで不確定だったし、結婚するなら結婚するで、もう少し満を持して発表するべきではないかと、40歳の目から見て思う。  しかしこれもまた、前々回の記事と同じく、時間が経ったことでジョークがジョークとして通じなくなっているタイプなのかもしれないとも思う。どういうジョークか。「伏線と真相を同時に言ってしまう」というジョークか、はたまた「結婚というとても大事なことをあえてめっちゃさらりと言う」というジョーク。どちらにせよあまりに伝わりづらい。24歳のセンスは解らない。  あるいは、「25歳で結婚する」というのはファルマンの人生における決定事項だったため、この時期にはもうだいぶ結婚のことをせっつかれており、それにより僕は少し蓮っ葉な態度となり、なんか知らねえけど俺は結婚するらしいんだよね、という他人事感をにおわせているのかもしれない。そしてたぶんこれが正解なんだと思う。  説としてこれが正解だろうし、そしてファルマンにだいぶプレッシャーをかけられての、このタイミングでの結婚というのもまた、人生における選択肢の正解であったのだと、16年後の今、実感する。まだ覚悟ができていない、だいぶ流され気味な感じだが、じゃあ待っていたら僕の中の機はい

おもひでぽろぽろぶぉろろぉぉん

 おもひでぶぉろろぉぉんをし始めてから、初めて「おもひでぽろぽろ」を観た。ずいぶん久しぶりの観賞で、前回がいつだったのか、軽く検索を掛けたけれど、はっきりしなかった。それこそ、おもひでぶぉろろぉぉんをしていればそのうち判るが。  27歳のタエ子が10歳の自分を思い出すというのは、いま40歳の僕が24歳当時の日記を読み返すという行為と、歳月の隔たりという意味ではほぼ変わらない。タエ子は旅に10歳の自分を連れていったわけだけど、僕は日々の暮しの中で恒常的に寄り添っている、という違いはある。またタエ子のそれが淡い記憶の向こうの出来事であるのに対し、24歳の僕はブログという意識的な行為によって雄弁に主張を唱え続けるわけで、なるほどこういう差異が、「ぽろぽろ」と「ぶぉろろぉぉん」というオノマトペの違いなのだな、と思った。こぼれ落ちるものと、恣意的に開陳するもの。なかなかよく計算されたタイトルではないか。  あと前回の鑑賞ではたぶん強く感じなかったこととして、27歳のタエ子の場面、その山形に行く前の東京の風景が、それはこの映画で並行して描かれるふたつの時代の、懐かしき小学生時代の情景に対し、どこまでも現代的であるべきはずなのだが、なにぶん2024年から見ると、そこもまたずいぶんなレトロ世界になってしまっているので、ややこしいし、話が少しぼやける感じがあるのだった。wikipediaによると、映画の公開が1991年で、でも実は現代として描かれているあの時代は、1982年であるらしい。とは言え91年から見れば、82年はやっぱりぜんぜん地続きの現代だったろうし、たぶん10年以内であろう僕の前回の鑑賞時にも、こんなことはあまり気にならなかったことを思えば、ここ何年かで、時代という大陸はそっと分断されたのかもしれない。言われてみればそんな気はたしかにする。いつ、どの瞬間、なにがきっかけで、というのは判らない。でも、おもひでぶぉろろぉぉんをしていくことで、それが探れる可能性はあるかもしれない。  またこれも前回の鑑賞時には感じなかったこととして、柳葉敏郎演じる山形の若い農家、トシオは、ただの田舎の純朴な農業ひたむき青年ではなくて、わりとビジネス的な意識があると言うか、繋がりとか、セミナーとか、コンサルとか、コーチングとか、実はかなりそっち系の人だったのだ、ということも思った。そしてこの発見