おもひでぽろぽろぶぉろろぉぉん

 おもひでぶぉろろぉぉんをし始めてから、初めて「おもひでぽろぽろ」を観た。ずいぶん久しぶりの観賞で、前回がいつだったのか、軽く検索を掛けたけれど、はっきりしなかった。それこそ、おもひでぶぉろろぉぉんをしていればそのうち判るが。
 27歳のタエ子が10歳の自分を思い出すというのは、いま40歳の僕が24歳当時の日記を読み返すという行為と、歳月の隔たりという意味ではほぼ変わらない。タエ子は旅に10歳の自分を連れていったわけだけど、僕は日々の暮しの中で恒常的に寄り添っている、という違いはある。またタエ子のそれが淡い記憶の向こうの出来事であるのに対し、24歳の僕はブログという意識的な行為によって雄弁に主張を唱え続けるわけで、なるほどこういう差異が、「ぽろぽろ」と「ぶぉろろぉぉん」というオノマトペの違いなのだな、と思った。こぼれ落ちるものと、恣意的に開陳するもの。なかなかよく計算されたタイトルではないか。
 あと前回の鑑賞ではたぶん強く感じなかったこととして、27歳のタエ子の場面、その山形に行く前の東京の風景が、それはこの映画で並行して描かれるふたつの時代の、懐かしき小学生時代の情景に対し、どこまでも現代的であるべきはずなのだが、なにぶん2024年から見ると、そこもまたずいぶんなレトロ世界になってしまっているので、ややこしいし、話が少しぼやける感じがあるのだった。wikipediaによると、映画の公開が1991年で、でも実は現代として描かれているあの時代は、1982年であるらしい。とは言え91年から見れば、82年はやっぱりぜんぜん地続きの現代だったろうし、たぶん10年以内であろう僕の前回の鑑賞時にも、こんなことはあまり気にならなかったことを思えば、ここ何年かで、時代という大陸はそっと分断されたのかもしれない。言われてみればそんな気はたしかにする。いつ、どの瞬間、なにがきっかけで、というのは判らない。でも、おもひでぶぉろろぉぉんをしていくことで、それが探れる可能性はあるかもしれない。
 またこれも前回の鑑賞時には感じなかったこととして、柳葉敏郎演じる山形の若い農家、トシオは、ただの田舎の純朴な農業ひたむき青年ではなくて、わりとビジネス的な意識があると言うか、繋がりとか、セミナーとか、コンサルとか、コーチングとか、実はかなりそっち系の人だったのだ、ということも思った。そしてこの発見は時代どうこうではなく、純粋に僕の人生経験の蓄積によるものだ。そっち系の、この人は自分とは決して相容れない人種だ、ということに、僕は若い頃よりも早く気付けるようになった。
 まあそのような「おもひでぽろぽろ」観賞であった。おもひでぶぉろろぉぉんの元ネタなのだから、本来はもっと早く観るべきだった。しかし観たことでおもひでぶぉろろぉぉんにいい効果がもたらされるかと言えば、まあ別にそんなこともないような気もする。もちろん純粋におもしろかったけど。高畑勲やべえな、と改めて思った。