顔パンツを巡る冒険 1

 オミクロン株の出現によって、新型コロナ騒動は、だんだん終わりの気配が見えはじめた気がする。もちろん、そうキパッと終わるものではなくて、いろんな考え方の人がいるので、終わるタイミングは人それぞれだ。どうも中には、コロナ禍にある暮しこそが平常、むしろこれが自分の立脚点、みたいになってしまっている人もいる気がして、日々というものは、新型コロナウイルスの感染状況以外、なにを気にして生きていくものだったっけ、と惑うような、そういう人は「夜明け前」のように、時代の趨勢が移り変わってしまったあとは、自己のアイデンティティを喪失し、どう生きればいいのか途方に暮れてしまうのではないかと、他人事ながら心配になる。大きなお世話だ。たった2年でそれまでの人生観が様変わりしてしまった人は、心配などしてやらなくても、じきに折り合いをつけて再び「普通」を獲得するだろう。「普通」に生きる人間は、強く、たくましく、ふてぶてしいのだ。
 新型コロナ収束後の世界で、僕が期待しているのは、このたびの騒動ですっかり市民権を得た、マスクの習慣がいつまでも続くことだ。マスクは本当にいい。コロナ前の世界では「伊達マスク」などと呼ばれ、やや社会問題的に扱われていたものだが、見事にひっくり返った。僕は伊達マスクの習慣はなかったが、強制的なマスク生活を経て、もう完全に手離せなくなってしまった。それは、新型コロナが収束したとて、世の中にはいつだってどこだってウイルスがあり、特に人の多い場所ではマスクをしておくにぜんぜん越したことはない、という感染症対策としてももちろんだが、それに加え、顔の半分を隠せるのが居心地よい、という理由も大きい。顔をさらけ出さないことは、こんなに楽なことだったのか。
 例えば咥内および歯の汚れである。例えば鼻毛や鼻糞である。例えば剃り残しのだらしないひげである。マスクをしていれば、それらの懸念から解放される。あるいは他者とのコミュニケーション的にも、動揺していることを悟られにくかったり、あとこれも地味に嬉しいと、しみじみ感じることとして、仕事中などに同僚と話して、同僚がなにかジョークめいたことを言って、こちらはもちろんそれに対して愛想笑いをし、そこで会話が終了するわけだが、これまではその最後の笑顔を、作業の続きに戻ったあと、どのタイミングでどうやって真顔に戻すか、という悩みがあったが、マスクのおかげでそれもなくなった。いいことづくめである。
 だから、マスクをしたがらない人というのが、信じられない。逆説めいた表現になるが、マスクを着けているほうが、僕はよほど束縛から解放されていると思う。
 そんなことを感じていた折、やはり新型コロナ収束の気配が漂い、人々のマスク習慣になんかしらの動きがあるのではないかという空気を察知したのか、おそらく僕と同じ、アフターコロナの世界でもマスクを着け続けていこうという志を持った者が、マスクについて「顔パンツ」という表現を用い、拡散した。来歴は詳しく知らない。もしかしたらもっと前々から一部では使われていた表現なのかもしれない。
 顔パンツ。なるほどと思う。もうこれはマスクなどという、感染症対策のアイテムではなく、装備品を着ける前の勇者が、項目としては出ないものの、前提として身に着けている、名もなき肌着の一種であるという、そういうことだ。マスクは新型コロナ騒動を経て、その地位に到達し、そのためそれを人前で脱ぐことは恥ずべきこと、あるいは変態行為であるという、そこまでのニュアンスを含ませた。なんとも巧みな表現ではないか。
 ところでこういう話をすると、どうしたって「疾患があってマスクができない人もいるんです」という指摘が出る。読者がいるブログの場合は、出る。僕のブログには読者がいないので実際には出ないが、脳内の架空読者が指摘してくる。それに対しては、こう答えるほかない。知らん。別にこちらも、下着だから全員マスク着けろ、と言っているわけではない。マスクを着け続ける風潮を世の中からなくさないため、こちら陣営の領分を減らさないための方便として言っているのだ。他人の、どんな発言も、まずは許容したり看過したりしろ。
 つづく。