文章を書くことと、宿敵の出現について ~おもひでぶぉろろぉぉん~
今年の大河ドラマ「光る君へ」は平安貴族の話なので、日記というものが話にけっこう登場する。 少し前の放送で、主人公のまひろ(紫式部)が、「蜻蛉日記」の筆者である藤原道綱母と対面し、感想を伝えている場面があった。それを見て、立場ある人間の赤裸々な内容の日記を、面識のない同時代の人が読んでいるのってどういうことなんだろうと疑問に思い、ネットを見たら、同じ質問している人がいて、答えも寄せられていた。 要するに私小説なのだと。 なるほどそういうことかと、すとんと腑に落ちた。 日記と私小説の垣根は低い。両者の重なっている部分はマーブル状になっていて、明確な線引きをすることはできない。私小説と、名称は小説のほうに寄っているけれど、実態は日記に限りなく近いだろうと思う。ちなみに、当世流行りの2.5次元ミュージカルというものがある。実際に観たことがないので、2次元作品を題材にしただけの3次元だろうと感じるが、もしかすると生で鑑賞すれば、脳内で特殊な補整が起って2次元世界のように思えるのかもしれない。日記と私小説と小説の関係は、それと少し似ている気がする。 さて、17年前の自分の日記である。こちらは私小説ではなくどこまでも日記のはずなのだが、しかし17年という時間の隔たりが、日記に登場する「僕」を、もはやこの僕とは他人の、それこそ次元の違う別世界の人物のように思わせる作用があるようで、そんな歳月をかけた熟成の結果、まったく予期していなかった味わいが生れたというような、そんな感じがある。 当時の自分の意識の高さもまた、今から見ると眩しくて、物語の登場人物めいているのだった。やはりまだ大学を卒業して間もなく、日記でも私小説でもなく、小説を書こうとしている様子なんかも端々から窺え、気概がある。もちろん今の僕だって、完全に枯れてしまったわけではないのだけど、若い頃には「気概」と呼ばれていたものは、ある年齢を過ぎると、性質はそのままでも「頑迷」へと呼称が変わってしまうのだ。 なにしろ毎日更新である。「KUCHIBASHI DIARY」を毎日更新しつつ、「俺ばかりが正論を言っている」をやったり、ヒット君人形を作ったり、さらにはまったく別のブログをやったりもしている(ただしこの頃の泡沫ブログたちは、リンクをクリックしても「404」と言われるばかりで、どんなコンセプトのブログだったのか...