以前と以後の、本を読むということについて ~おもひでぶぉろろぉぉん~
17年前の日記を読んでいると、本のことをすごく書いていて驚く。買ったり、借りたり、すごくしている。 そこに記されている本たちは、存在を覚えているものもあれば、完全に忘れているものもある。そして内容に関して言えば、ほぼ覚えていない。でも内容を覚えていない以上、今となっては読んだ意味などまったくなかった、ということにはならない。 読書とは食事みたいなもの、などと言うと、かっこつけてる、うざい、読書家の自分にアイデンティティを持った、ビブリオバトルとかやっちゃう、痛々しい奴みたいになってしまうが、彼らの発言の狙いである、「俺にとって読書は栄養補給だから、できないと飢えて死んじゃうんだよね」という意味では決してなく、17年前に食べたカレーライスは、覚えていないし、物質としてもう僕の体にまったく残っていないだろうけど、でもまあそのときそれを食べたことで(他のメニューでもぜんぜん構わなかったにせよ)、大げさに言えば今の状態の僕があるのだという、なんかそんな感じだ。バタフライ効果とも違うので、カレーライス効果とこの感じのことを名付けようか。 ただし時間であったり経済状況であったり、食べる物がいつだってよりどりみどりの人生ではなかった(そんな人生あるのだろうか)ので、あなたがこれまで食べてきたもので今のあなたが作られているんだよ、そして同じように、読んできた本で今のあなたの思考が形作られているんだよ、なんてことをしたり顔で言われると、そんな乱暴な物言いがあるか! と言いたくもなる。いったい僕は何が言いたいのか。 それにしてなぜ17年前の自分は、そんなに本を読んでいたのか。もとい読めていたのか。 書店員だった、というのはもちろんある。そのため本を読むことは仕事の一環だった、ということでは、しかしない。勤めていたのはそういう書店ではなかったし、なにより僕は、本が好きであることを標榜する人間というのが好きではないので、その理念の下、当時はちょうど「書店員によるPOPブーム」みたいなところがちょっとあったけれど、勤めていた6年半で、ついに1枚もPOPというものを作らなかった。それでいて、入荷した本の中で気になったものは、よく家に持ち帰って読んでいた。もう会社がなくなったので白状するが、勤務していた書店には、店員は本を2冊借りて帰ってよい、という制度があった。もちろんきちんと記録...