「おかあさんといっしょ」特別週を通して感じたこと


 「おかあさんといっしょ」が65周年ということで、先週は一週を通して、これまでの番組の歴史を振り返る特別版を放送していた。
 ただし65年の歴史と言いつつ、振り返りは基本的に40年前くらいのところから始まっていた。すなわち、おさむおにいさんであり、ゆうこおねえさんであり、そして「にこにこぷん」である、まさに僕が現役幼児として観ていた時代だ。最終日に、本当に放送開始直後の、黒柳徹子が声優をしていたという白黒人形劇の映像も少し出てきたけれど、特別週の初日である月曜日に登場したのが坂田おさむと神崎ゆう子のふたりだったので、「おかあさんといっしょ」サイドとしても、現代に連なる地続きの歴史としてはそこからだ、という見解なのだと思う。それより前の時代のことは、斯様に今回もほとんど言及がなかったため、どういう形式だったのか判らないが、われわれ世代が観はじめたあたりでエポックメイキングがあったのかもしれない。これは僕の姉が得意とする言い回しで言うところの、「うちらの時代が黄金時代」のパターンと言えるかもしれない。
 しかしそんな我らが誇る「にこにこぷん」だが、久しぶりに当時の映像を観て、懐かしいなあと思う部分はもちろんあるにせよ、そこまで万感の思いというほどには熱情は高まらなかった。そんなもんかな、と思いながら、特別週は火曜、水曜と続き、キャラクター劇も「ドレミファ・どーなっつ」「ぐ~チョコランタン」(そして黒歴史なのかほぼスルーされた「モノランモノラン」)と移り変わり、そして木曜日の「ポコポッテイト」が始まった瞬間のことである。オープニングが始まった途端に、ぶわっと強烈な感情が去来した。人生の大切な時間の思い出が呼び起され、愛しく、切ない、魂を抉られるような衝撃があった。2011年3月から2016年3月という、練馬だったり、第一次島根移住だったりした、ポルガ幼児期時代、僕は自分が幼児だった頃より、はるかに熱心に「おかあさんといっしょ」を観ていたようだ。こみ上がる感情の強さで、そのことを理解した。一方でポルガに「懐かしいだろう」と問いかけたら、「これはほとんど覚えていない」と言い、ピイガと観ていたこれの次の「ガラピコぷ~」のほうが印象が強いそうである。嘘だろ、と言いたくなる。当時の住まいであった島根の実家で、毎日あんなに一緒に観ていたじゃないか!
 自分も含めて、どうしてこんな現象が起るのかと考えて、もしかすると「おかあさんといっしょ」というものは、親が知覚し、捕捉するものであり、当の子どもは、そもそもテレビ番組という概念がまだないものだから、コンテンツとして認識せず、陽の光とかと同じような、日々の中に現れる「そういう現象」くらいにしか感じていないのかもしれないと思った。だとしたらすさまじいことだと思う。
 ところで特別週のゲストなのだが、月曜日は前述の通り坂田おさむと神崎ゆう子、火曜日が速水けんたろうと茂森あゆみと来て、水曜日はつのだりょうことはいだしょうこという、おねえさんのふたりなのだった。これはそれぞれの相方であるおにいさんが、杉田あきひろと今井ゆうぞうだからで、前者は(もう社会復帰はしているものの)覚醒剤取締法違反容疑で逮捕、後者は故人となっており、どちらも歌の映像では登場したものの、なんとも言えない感じがあった。その一方で木曜日は、次の代のおねえさんである三谷たくみが完全に業界から引退しているため、おにいさんである横山だいすけと、「ポコポッテイト」のキャラクターであるムテ吉というコンビであった。
 たくみおねえさんに関しては、確固たる本人の意思なので、潔いなあと思うばかりなのだけど、かつて死亡事故を起した速水けんたろうを含め、おにいさん方の、なかなか思うようにいってなさそうさに、同じ男性として、深く感じ入るところがあった。さらに言えばうたのおねえさん方がいつまでも若々しいのに対し、うたのおにいさんでなくなった彼らは、急速に老けたり、輝きを失う傾向がある気もして、それは世の中の仕事をリタイアしたあとの男女の図そのままなのだった。
 最近、妻と娘ふたりを眺めていてもしみじみと感じるのだけれど、やっぱり生きものの、そして社会の、ひいてはこの世の、主軸というのは女性で、男なんて存在には、立脚する根拠がないと言うか、後ろ盾のようなものがなにもないと思う。
 先日読んだ本で、中国のモソ族というのが紹介されていたのだけど、モソ族は女系社会で、家長はもちろん女性だし、土地も財産も仕事も、要するに社会を成り立たせる役目はすべて女性が担っていて、ではモソ族の男性はなにをしているかと言えば、特に何もせず、ダラダラ遊んでいるのだそうだ。でも日中にそうやって楽をしている分、夜は女性を相手に奮い立たなければならない、とのことで、それはもはやチョウチンアンコウとまったく同じ生態なのだった。そしてこれがこの世の真理なのかもしれない、とも思った。男性というものは、単なる1本のちんこであり、その付属品がたまたま女性と同じような、でもそれよりも若干かわいげのない形状をしているだけ、と捉えるべき、哀しい存在なのかもしれない。
 もっとも現世はそれを許さない。男性には実力不相応の役割が課せられ続けている。課せられ続けているのに、さらにはそれを女性が奪ってくるという、よく分からない展開さえ起っている。横山だいすけ・三谷たくみ時代の歌で「パンパパ・パン」というのがあり(2012年)、今回も放送されたのだが、その中に「フライパンじょうずなおかあパン」「サラリーパンのおとうパン」という歌詞があって、12年前はなんの違和感もなく眺めていたのだけど、久しぶりに観たら、たぶん今だったらここは引っ掛かってくるし、製作側もそれを事前に察知して回避するのではないか、ということを感じた。
 そもそもが「おかあさんといっしょ」という身も蓋もない性差タイトルでありながら(細々と「おとうさんといっしょ」もやっているが)、時代の流れか、ここ数年はジェンダーフリーへの意識が急速に強まっている感があり、最新のキャラクター劇「ファンターネ!」では、とうとう性別のないキャラクターが現われている。その一方で、番組の外では、おにいさんとおねえさんの引退後の姿を通して、男女の残酷な現実をまざまざと見せつけるのだから、エッジが利いているな、と思った。
 1週間を通して、だいたいそんなことを思った、特別ウィークだった。愉しかった。下の子も小5なので、実はもうほとんど、わが家は「おかあさんといっしょ」から離れつつある。寂しい。下の子の小学校卒業の気配を敏感に感じ取りはじめていて、早くも前のめりに寂しさを感じている。これもまた男親のわびしさかもしれない。