「ブログを書くということについて」を語ることについて ~おもひでぶぉろろぉぉん~


 このところ順調に「おもひでぶぉろろぉぉん」を進めていたのだけど、それで気付いてしまった。
 僕はブログで、「ブログを書くということについて」を、語りまくっている。
 なにをいまさら、という話で、「おもひでぶぉろろぉぉん」という企画自体が、その行為の最高到達点のようなものなのだけど、あまりにも無意識に、自然な流れでやっていたので、日常のブログ内で、20年近くも延々と行なっていたその行ないに、自覚がなかった。
 実は僕は、「取り組んでいること」を語るのではなく、「自分がそれに取り組んでいるということについて」を語る人間のことが、好きではないのだ。そういうメタ的な視点には、ひたむきじゃなさがある。そのスカした感じが苦手だ。
 たとえばサウナである。温度がどうとか、水風呂がどうとか、感じたそういうことを語るのはいい。でもレビュアーの中には必ず、「それにしてもこんなマニアックなことを気にする私ってちょっと異常なサウナマニアですな」みたいなことを述べる輩がいる。ラジオリスナーにもいる。与えられたテーマに関するメッセージだけ送ればいいのに、老練ラジオリスナーとしての矜持のようなものを語り出す輩がいる。
 まあなんにでもいるのだ。どんな事柄に関しても、それなりに長くやっていると、そのぶん歴史ができるので、そうなるとその瞬間の思ったことだけではなくて、つい蓄積をひけらかしたくなる。どうしたってそこには、自分はそこいらに溢れる十把一絡げのビギナーとは一線を画す存在なんですからね、そこのところくれぐれも承知しといてくださいよ、というマウント意識がある。要するに老害である。老害なので、ビギナーにとっては迷惑でしかない。長くやっているだけで、特に優れているわけではないので、誰も持ち上げない。持ち上げるとすれば、老害皇帝の座を狙う老害臣下くらいのものだろう。10年やっている人間は、自分の10年に誇りが生れ、その価値を他者に認めてもらいたいので、どうするかと言えば、20年やっている人間のことを持ち上げる。20年やっている人間が偉いということになれば、そのうち自分もそこに到達するので安泰である。ここに内輪受けの風土が醸成される。
 その感じがすこぶる嫌いなので、絶対に自分は、「自分がそれに取り組んでいるということについて」は語らないでいようと思っていた。思っていたのに、冒頭でも述べたように「おもひでぶぉろろぉぉん」はその究極形態だし、読み返している16年前のブログは、始めてまだ4年くらいしか経っていないのに、ものすごく「ブログを書くということについて」を語っている。

 しかしこれまでも薄々感じていて、今回の記事の邁進で確信になったのだが、僕の記事たちはやけに入り組んでいて、パッピローニが『女の子すらんぐ』について言及したり、雪子が夢でクチバシに出会ったりするわけだが、それらというのは僕がそういうリンクが好きだから発生するというのももちろんあるものの、真の理由というのは結局のところ、「世界が狭いから」なのではないかと思う。描こうとする世界の狭さが、書こうとする事象の重複を生み、そしてそこにリンクという言い訳が出来上がるのだ。
 そう考えて思い出されるのはファルマンの日記、「うわのそら」だ。あれって数年前から毎日、変わらぬテンションで日々の彼女の精神が綴られているが、この論で言えばもはや超絶的なリンク度合ということになると思う。まあ日記なんだから、日々の連なりなんだから、事象がリンクしてるのは当然なんだけど。
 結局この話の結論になかなかたどりつかないな。
 と言うかファルマンのそれは普通リンクとは言わないのか。世界が広いも狭いもなく、それは彼女の日常なのだから。僕の場合はブログに多分にフィクションが含まれるので、世界とかリンクとかいった言葉が彼女のそれよりも使いやすくなっているのだろう。
 しかし僕とファルマンのブログに共通している大きな特徴として、「ずっと自分の話しかしていない」というのがあると思う。重複はこれゆえに起こるものであって、だとすれば重複はリンクなどと卑怯に言い換えるまでもなく自然なことなのかもしれないとも思う。それは書けば書くほど、重ねれば重ねるほどに輪郭や厚みを生んで、それぞれの人間の世界の形を作り上げてゆくのではないかと思う。だとすればそれはもしかしたら日記を書くことそのもの、引いては生きることそのものの目的になりうるかもしれない。そしてそのように考えると、むしろいつまでも記事が重複することのない、自分以外の世の中のニュースとかについて言及しているブログの意義とは一体なんなのだろうかとも感じられてくる。ああいうのをやってる人は、どんどん世界が茫洋としてきやしないのだろうか。
 そんなこんなで要するに何が言いたいのかということだが、先日から触れている「I★PP」バッヂに関し、これの「★」をなんと読むかと言えば、それは「ラブ」でもなければ「ほし」でもなく、正解は「peep」なのだ、ということだ。I peep purope papiro、私はプロペパピロウの世界を覗き見ます、ということなのだ。これはそこに着地するための話なのだった。このバッヂを付ける者は、破皮狼の重複にまみれた狭い世界を、隅々まで覗き倒す者。だから誰よりもまず先に僕が、鞄の目立つ位置に付けて毎日労働に行っている。
(KUCHIBASHI DIARY 2008年1月29日)

 でもしょうがないだろう、とも思うのだ。なにしろ自分のことだから、甘い裁定になる。労働して、帰宅して、日々ブログを書いているのだ。どうしたって書くことは目減りしていって、自家発電的な、「ブログを書くということについて」をブログのテーマにせざるを得なくなる。

 心がほっこりあったかくなるブログ「うわのそら」でおなじみのファルマンが、夕食時いきなり、
「私、ブロガーとしてのひとつの真理に到達しようとしているの」
 と言い出したので驚いた。てっきりそれってこの先あと20年ぐらいは人類が辿り着けないものだと思っていた。ファルマンはもうちょっとの所まで来ているらしい。今後の彼女のブログの動向にものすごく期待したい。
(KUCHIABASHI DIARY 2008年2月4日)

 答えは3日後であった。

 夕食の最中、「ブロガーの真理には辿り着けたか」という問いにファルマンの答え。
 「ブログをやっている人とブログをやってない人では、やってない人のほうがかっこいい」
 なるほど真理であると思った。
(KUCHIBASHI DIARY 2008年2月7日)

 ちょっとあまりに熱心にやったものだから、自分のブログに食傷気味になっているのかもしれない。20代半ばの日記、ちょっとギラギラしているというか、刺身みたいに、食べるのにも体力が要るみたいな、そういう感じがちょっとある。もうちょっとゆったりと作業を進めようと思った。