学年題俳句のことを中心に振り返る ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 
 なるべく読み漏らしがないよう、複数のブログに跨る投稿を網羅し、日付順に読んでいるつもりなのだが、それでもどうしてもこぼれているものがあとから見つかったりする。自分の書いたものを、うっすらその記憶が残っている自分でやっているのにそんなことになるのだから、文学研究のように、後世の人間が作家の仕事をまとめようとするのなんて、本当に大変というか、不可能事なんだろうな、などと思った。
 これまでも何度も触れている2006年の3月。大学卒業、実家からの独立、5分の4同棲開始、そして無職と、日常のほうでいろいろあったため、そちらにばかり関心が行ってしまい、純粋なウェブ上の活動に対する目配りが疎かになっていた。
 これまでメインに読んでいた、はてなダイアリーの「pee★pee★mur★mur」で、「学年題俳句1000詠」の開始を宣言したのが4月14日であったため、てっきりそう信じ込んでいたが、実際に「1000詠」が開設されたのは3月20日頃であったようで、それに連動して作成された、学年題俳句投稿用ブログ「TEEN×TEEN×SEVENTEEN」(ちなみに最初は「TEEN×SEVENTEEN×TEN」というタイトルだった、というカルト知識もある)の開設も3月21日のことだった。
 だからそのそれぞれに、当時の僕の思考から紡がれた、まとまった量の文章がある。これもまた紛うことなき、purope★papiroの活動20年の一部なので、振り返らなければいけない。
 まず「学年題俳句1000詠」に、「学年題俳句とは」という記事がある。少し長いけど、せっかくなので引用することにする。

 ネットを利用しての題詠というのが、主に短歌のほうでなされているわけだが、俳句をやる人間としてその状況を眺め思うこととして、俳句における「季題」という装置のことがある。
 考えてみればそちらのようにわざわざ銘を打つまでもなく、俳句においてはその成り立ち上、季節の用語をその内に詠みこむという概念が公然として在る。それは絶対的なルールというわけでは決してないが、しかし実際的にかなりの力を持っていることはたしかだ。
 その理由について考えた場合、由来という観点からすると、そもそも連歌を発祥とする俳句の来歴というものが大きく関係するのだ、ということになる。しかしその一方で、類別という観点よりこの状況を捉えることも可能なのではないかと思う。
 すなわち同じく575の句形を有する川柳との差別である。季語はそのために、俳句の独自性を高めるためにこそ、声高に叫ばれているのではないか。
 俳句と川柳の違いというのは、過去さんざん語られ続けてきたテーマであって、突き詰めればその結論は季語のあるかないかである、というようなことでは決してない。しかし世間ではわりとそれでまかり通っている感があると思う。575で語られた文言があり、その作者がそれを「俳句だ」と述べた場合、多くこのように言われる。「それは俳句じゃなくて川柳である。なぜなら季語が入ってない」
 果たしてこの認識が、いかなる立場における者の魂胆によるものなのかはよく分からない。だが誰が仕組んだものにせよ、あるいは自然発生的なものにせよ、少なくとも世間において、俳句は季語により認識されている、というのは言えそうだ。
 そこまで考えて、頭の中には季語というものに対する不信感が湧き上がってくる。
 俳句と川柳という同形の詩を分類するためにのみ俳句における季語が重要視されるというのであれば、季語とは一体なんとくだらない装置であろうか。詩の質にはまるで有機的に結びつくことなく、認識や前提としてのみ存在している。17という文字数しか持たない詩形式においてそれを詠みこむことは、ひとつの句の実に3分の1を無駄にする行為である。
 ここに無季句という考え方も生まれるだろう。述べたように俳句と川柳の違いは季語によるものではないから、理論があれば無季で俳句を作ることも十分に可能である。
 もちろんこの文章の論旨は、季語はまったくもって愚なるシステムである、ということではない。来歴から見ればそれを句に含ませようとすることは不自然なことではないし、そのように季節の情趣を詠むという芸術的な意味合いでなくとも、共通の単語を用いることにより他者との比較がしやすくなり、座の文芸たる俳句として好都合であるという要素もある。そのように考えれば季節および時候とは、「話題が切り出しにくいときや見つからないときは天気の話をすればいい」というような、最大公約数的な無難なテーマであり、だからこそこうも俳句のルールとして罷り通っているのかもしれない。なるほどそれはそれで有用であると思う。
 しかし堂々と宣言することでもないが、誰にも共通の話題としての季節および時候と言いつつ、植物や天候や生きものといったものに、僕などはそれほど関心がないと思う。生まれた頃から道路はすべてコンクリートだし、食べものの旬というのもよく分からない。季節の変化とはすなわち気温の変化、またそれに伴う少女の衣服の表面積の大小であるというくらいの認識で生きてきた。
 こんな人間が季語をテーマにして詩など詠めるはずがないのである。「季節感の素養」という言葉はいかにも世も末な風味があるが、僕にはまさしくそれがない。
 それでもしばらくは少女に発生する季節感を頼りにして俳句を作ってきた。少女は夏には水着になり冬にはダッフルコートを着るので、それを季語と結びつけて詠むのである。
 これはこれとしておもしろかった。しかしやっているうちにひとつ気付いたことがあり、すなわちそれは、季語は必要ない、ということだった。詠みたいのは女の子だけだったのだ。水着も詠みたければダッフルコートも詠みたいが、それは女の子の可愛さについて詠みたいわけであり、別に季節について詠みたいわけではなかった。それなのに季語はひとつの句の3分の1もの容量を奪うのだ。なんという無駄か。しかもダッフルコートは季語でない。
 また仮にそれをどうにかしたとしてもまだ問題がある。それは、季語は往々にして永遠性を詠うのに対し、少女美とは一瞬性であるということだ。そのためそれをひとつの句の中に内包させることは、句がちぐはぐなものとなることを意味する。
 もちろん、自然界の悠久さを引き合いに出すことにより生の短さを強調するのだ、という意見もあるだろう。もちろんそのことが分からないわけではない。
 ただしことはそれほど簡単ではない。季節は365日周期でいつまでも巡り、その中に生きる人間の生命は短く、そして少女の美しさはきわめてはかないが、しかし少女にはその一瞬の中で、季節にも人間にもない特殊な区切りが、春夏秋冬を巡る少女期の彼女たちには、存在するだろう。
 すなわちそれは学年という。
 この概念を明確にしないことには、少女たちを詩に詠むことなど不可能である。なぜなら巡りくる春は毎年なにも変わらないが、中学1年生の感じる春と高校1年生の感じる春では大きく異なるからだ。
 つまり限られた文字数の中でルール設定しようとする場合、少女美を詠むにあたり明確にしなければならないのは季節ではない。学年なのだということになる。
 そこでここに季題俳句とは異なる新しい俳句概念を提案したい。
 中学1年生、中学2年生、中学3年生、高校1年生、高校2年生、高校3年生という6つのカテゴリに分けられた学年題を詠みこみ、その年頃の少女美を詠うための俳句形式だ。
 すなわちこれこそが学年題俳句である。

 そしてそれとは別の記事で、「参加受付」というのがある。

 当企画「学年題俳句1000詠」に参加をするという人は、その旨を自身のブログに記述し、この記事にトラックバックしてください。それが参加の受付になります。その際は記事の題名に名前(ハンドルネーム)を置くことを忘れないようお願いします。
 また記事内において簡単な自己紹介とか、自身の少女観、この企画への意気込み、心構え、フェチ、萌えどころ、少女についての豆知識、女体に関する発見、性の疑問、将来の夢なんかも、書けたら書けたで悪くないんじゃないかと思います。
 参加はもちろんどなたでも自由です。女性も大歓迎。少女美を語るのに性差なんてないはず。「ルール」のところを読んでから、気軽に決断してください。どしどし参加待ってます。
 ただしいちどトラバしてしまうと、あとでそれが嫌になっても、主催者である僕自身のもの以外、どうしてもという場合を除いて僕としてはあんまり訂正とかやりたくないので、それなりに留意するのも悪くないと思います。
 そんな感じです。よろしくお願いします。愉しくなればいいな。

 そうなのだ。「学年題俳句1000詠」とは、古式ゆかしきトラックバック機能を利用し、運用されていたのだった。トラックバック。当時からそこまでメジャーな機能でもなかったので、機能が停止された今、死語というイジリさえもされず、ただ淡々とこの世から消え去ってしまった。跡形もない。寂寞もない。トラックバックなんて、世界にもともとなかったんじゃないかとさえ思う。そんなトラックバック機能に支えられた「学年題俳句1000詠」は、もはや空中楼閣のようで、その実存さえもが疑われ始めている。でも「学年題俳句1000詠」は本当にあったんだ。父さんは嘘つきじゃなかった。
 そしてこの記事に、僕は「TEEN×TEEN×SEVENTEEN」からトラックバックを飛ばし、参加表明を行なう。その記述がこれである。

 purope★papiroといいます。この企画を主催し、そしてもちろん参加します。
 年齢は22歳。好きなスポーツは相撲と野球です。
 少女観としては、僕にとって少女とは神話のようなものだと思います。ただ美しく、そして圧倒的なのだけど、同時に畏れの対象でもあり、かつ守り続けたいと感じさせる、そんな存在ということです。神話は人類が誕生したその瞬間から存在し、時代によって磨かれながら語られ続けてきたものですが、しかし世界の永遠なる仕組みを、人によって発明されし言語によって説明付けようとするそれは、見方を変えれば人類というもののちっぽけさを象徴するものかもしれません。世界の一瞬しか生きない人が世界を説明できるはずはない、だけど説明しようとする。説明を試みた物語は時代を貫いて伝承され、そして徐々に洗練されてゆく。その結実こそが神話です。
 少女とはすなわちそのようなものだと思います。
 この企画に取り組むことにより、その考え方に確信が深まるか、あるいはそれとは異なる別の考え方を発想できればいいと考えています。100題をそれぞれ10句、合計1000句ということなので、大変だとは思いますが、がんばりたいです。あまり気負わずにやっていきたいですね。上5を変えるだけ、下5を変えるだけ、とかでもぜんぜんいいんじゃないかと思います。
 ちなみに自己分析するところの属性としては、無邪気な女の子が好みです。まだ性に興味がなくても、胸が膨らんできても、赤い実が弾けても、パパとお風呂に入らなくなっても、初潮を迎えても、オシャレを気にするようになっても、頭の中がエッチなことでいっぱいになっても、ファーストキスをしても、破瓜に至っても、そのどの段階においても少女にはただただ無邪気であって欲しいと強く願います。
 ただし言いたいのは、無邪気と馬鹿とはまったく別だということです。馬鹿は嫌いじゃないですが好きでもありません。無邪気と言ってもそれは馬鹿なのでは決してなく、少女としての自己認識、またそこから発せられる作為性みたいなものは必要であると思います。言い換えれば「かわいい魂胆」という風にも表現できるでしょうか。ただし言いたいのは、その企みもまた無邪気の発するところであるべきだ、ということです。ここらへんのことは作っていく句の中で表現できればいいと思います。
 次に少女についての豆知識ということですが、これは本当に有益な情報なのですが、実を言えば少女のいちばんの性感帯は豆ではなく、それではどこにあるのかと言うと、それは頭の中なのだそうです。この事実は僕が女の子に関することを考えるとき、常に頭の中に置いてあることです。つまり頭の中にあるという少女のいちばんの性感帯は、僕の頭の中にあるのだとも言えると思います。僕は乳房もクリトリスも持てないし、持ったとしても宝の持ち腐れですが、自らの頭の中に、頭の中にあるという女の子のいちばんの性感帯を備えられれば、それはしあわせなことだと思います。
 それと最近の女体についての発見としては、女体とはちょっと違うのですが、女の子の半分は精子でできている、ということに気付きました。生物学的に見れば精子は情報だけでベースはほとんど卵子なんでしょうが、社会的に見ればあらゆる人間というものは、半分は卵子、そしてもう半分は精子によって出来上がると言って間違いありません。だとすれば、男性は自慰の結果として精液を体外へ放出しますが、放出された精子の半分は少女になりうる要素を持っているとも考えられるわけで、こう考えることにより自慰についての観念はだいぶ変化してくるのではないかと思いました。放精は終わりじゃなくてむしろはじまりなのだと考えることは、しあわせなことだと思います。
 性の疑問としては、これは解決したところで今更どうしようもない疑問なのですが、雑誌の投稿欄とかにある10代半ばとかのセックスって、一体どういう経緯で実現し得るものなのでしょうか。思い返すに、あのときああしてれば……みたいな後悔さえありません。やっぱり海とかに行かなきゃいけなかったんでしょうか。あるいは誰もいない朽ちかけの神社とかに行くべきだったんでしょうか。10代半ばの僕は、行かずに過ごしてしまいました。行けばチャンスはあったんでしょうか。それともチャンスの段階から、僕の今生にそれは与えられなかったのでしょうか。だとすればそれは不しあわせなことだと思います。
 最後に将来の夢ですが、もちろんこれは女の子と自分の関係性についての将来的なビジョンということですね。だとすれば不特定多数の概念的存在としての女の子は、いつまでも歳を取らずに女の子のままなわけですが、僕という個人はだんだんと歳を取り、両者の年齢差はだんだんと広がっていってしまうわけで、問題はそこにあるのだと思います。実際すでにもう僕はこれまで彼女たちとの唯一とも言える共通項であった、「学生」という範疇からも弾き出されてしまいました。このように女の子と僕という存在はどんどん懸け離れたものとなってゆくわけです。これまで把握していた女の子のことが、どんどん現実の女の子からは乖離していってしまうわけです。一体これをどうしたらよいのか。
 これに対する当座の志としては、「つかず離れず」ということを挙げたいと思います。離れすぎぬよう、姿を見失わぬよう努めつつ、しかし近付きすたら詩になんてきっと詠めないわけで、だから女子校の教師とかにはなるべくならないように心掛けつつ、そして7月期にはティーンズファッション雑誌を買い漁り、電車では自分が座ること以上に女学生の位置関係に気を配り、だから女の子が2週間にいちど、あんまり悩み事のない夜とかにふっと思い出したりする、女の子とはそんなくらいの距離感で生きてゆきたいと思います。
 そんな感じです。よろしくお願いします。

 この時期の文章を読んでいると、ワンパターンなのだけど、先行きがまったく見通せず、来月以降どう暮していくのかなにも定まっていない状況で、お前よくこんなことやってたな、ということを思う。なぜなら逃避だから、と言えばそれまでだけど。
 そして今回、なぜ唐突に学年題俳句についての話を展開したかと言えば、「おもひでぶぉろろぉぉん特設サイト ~フレーズで振り返る20年の歩み~」の作業が2006年の9月まで進み、そこに「学年題俳句1000詠」第2の参加者(開設半年にして待望の)として、高校1年生の道産子ガール、まひろさんが登場していたからだ。そこからいろいろ遡ることになった。
 まひろ! あのまひろである。まひろってもう、登場してから17年が経つのか。じゃあ今まひろって33歳くらいなのかな。すごいな。みんなびっくりするくらい年を取るな。そしてこのまひろから、おむすび三太やら宇佐木学園やら道草マーガレッツやら、いろいろ展開してゆくのだよな。信じられないな。本当に誰からも一言もおもしろいとか言われなかったのに、ひとりでひたすら愉しくやっていたな。懐かしい。なんか、異様に愉しかったんだよな。