浜っ子の記憶


 職場に、職場体験として中学生がやってきていた。男子が2名。ほとんど絡まなかったが、職場に中学生がいるというのは新鮮でおもしろかった。
 夕飯の席でそのことを家族に向かって話したら、ファルマンが「懐かしい」と言う。「私は中学では介護施設、高校では保育園だったよ」。初めて聞く話に、へえと思う。「島根県にはそんな風習があるのか」と感心したところ、「全国にあるよ!」と正された。
「でも俺はしたことないぞ」
「それは忘れてるだけだよ」
 しかし職場体験をしたとなれば、それはだいぶ特別な記憶になるだろうと思う。やったのに忘れるなんてことは、さすがの僕でもあり得ないはずだ。高校は私立だったのでなかったとしてもおかしくないが(そもそも高校時代には既にバイトをしていた)、教育課程に含まれるのだとしたら、公立の中学校だったのにやっていないのは不思議だ。だとすればやったのだろうか。本当にやったのに忘れているのだろうか。いやそれはないと信じたい。
 だとすればまたあのやつだ。ファルマンと小中学生時代の話をしていると、たまに発生する現象。その現象の原因は、ひとえに、僕が横浜市の出身であるという点に拠る。
 横浜市はたぶん、教育関係にあまり力を入れていない自治体なのだと思う。横浜で育っただけで、横浜で子どもを育てたわけではないので、客観性はあまりないのだけど、きっとそう(横浜で暮し、横浜で子育てをしているジモトモに聞いてみよっかな)。
 何年か前、保育園に入れない待機児童のことが世間で問題になったが、その際に横浜市は、「横浜市は待機児童ゼロです!」とのたまった。それは、横浜市は他の地域で「待機児童」と呼び、今回の問題を受けてその数を集計しているその子どもたちのことを、横浜市では「待機児童」とは呼ばないから、という、思わず腰が砕けそうになる手法を用いてのものだった。それと、横浜市の給食の不味さについては、近ごろ世間でも徐々に取り沙汰されてきている様子があるが、僕の小学校時代も、それはもうひどかった(それについてはしっかり記憶している)。給食は得てして地域格差があり、都会であればあるほど不味く、田舎であればあるほど美味しいという傾向があるようだが、横浜市のそれは、都会云々ということではなく、意欲の問題ではないかと思う。やる気がないのだ。小学校の給食は不味かったし、中学は給食が「なかった」。本当は小学校の給食だって、横浜市は作りたくないんだと思う。なんか異様に、横浜市はそこらへんのことをがんばりたくないのだ。
 そんな横浜市なので、職場体験などという、関係者がいろいろ面倒臭そうなカリキュラムなんぞ、もちろんブッチだ。やるわけがない。断言してもいい。絶対に忘れてない。やってない。あとついでに、僕は小中学校で宿題というものを出された記憶がなくて、宿題というのは、のび太が0点を取ったり、廊下に立たされたり、というのと同種のフィクションであるとずっと思い込んでいた。ところが子どもを育て、その子どもが小学校に上がってみれば、普通に宿題が出されるので、「宿題って実在したんだ」とびっくりした。僕のその感嘆を聞いたファルマンはやはりその時も、「忘れてるだけだよ」と言ってきたのだけど、でも宿題が本当に日常的に出されていたら、小中時代の日常に組み込まれていたはずで、それを忘れるなんてことはあり得ないと思う。そう反論したところ、
「じゃああなたがやらなかっただけだよ」
 とファルマンに言われ、いや、それこそないだろ、……いや、ないと思うよ、さすがに、えっ……、うん、いくらそんな、ねえ、たぶん、そんなはずは、と、しどろもどろになった。宿題は、もしかすると、もしかして、あったかもしれない。やった記憶はない。