2006年の想像した未来のコミュニケーションについて ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 日記の読み返しは、2006年の9月に突入している。合わなかった書店を2ヶ月で辞め、大学時代にバイトをしていた書店に出戻って、長時間バイトとして働き始めた時期。気楽と言えば気楽な時期であったろう。なんとなく日記の雰囲気も明るくなった感がある。
 その中、9月6日付の「俺ばかりが正論を言っている」にこんな記述があった。

 インターネットが相互参加型になってきているのが好ましく感じられない。
 なんと言うか、コミュニティの感じが嫌なんだと思う。ルールとか責任とか。そういうのが現実で面倒臭いのでネットを始めた感じなのに、なんかネットもまたそういうことになろうとしている。解せない。
 もちろん便利なんだろうとは思う。百科事典とか。
 ただコミュニケーションツールとしてのそれは許せない。要するにmixiらへんが許せない。ぼくらの世代はまだいいけれど、mixiがはびこる世の中で育つ子どもは、書籍や新聞のような、個人で情報を得る手段に価値が見出せなくなるのではないかと思う。あるいはそれで得た知識や感想を他人と共有せずにはいられなくなったり。それはきわめて気持ちが悪い。大きなものに組み込まれてしまうのでは、その人が生きている意味がなくなってしまう気がする。
 ぼくにとってホームページはもちろん、ブログも主張や発表のためのものなのだ。あくまで一方的。折衷案なんて必要ないんだ。シャングリラなのだから。これはダメな考えなんだろうか。未来のコミュニケーション人に疎まれるんだろうか。

 2006年の実際の空気感というものが、今となっては分からないので、これが未来をだいぶ的確に予言した慧眼なのか、誰にでも言えるような退屈な意見なのか、いまいち判断がつかない。文中にあるように、mixiは既に繫栄していた(2004年開始)。しかしTwitterもFacebookも、日本語版サービスの開始は2008年からで、まだSNSという言葉は生まれていなかったか、生まれていたとしても日本の大衆には届いていなかったろうと思う。ちなみにiPhoneの発売は2007年である。2006年というのは、そういう年だったのだ。
 「mixiがはびこる世の中で育つ子ども」という記述が、涙を誘う。過去の人が考えた、実際はそうはならなかった、いわゆる「懐かしい未来」だ。このとき栄華を極めていたmixiだが、前述のSNSの黒船ら(あるいはGHQ)によって、完膚なきまでに壊滅させられた。だからこの世に、「mixiがはびこる世の中で育つ子ども」は存在しない。でもそれは「mixi」の部分を「SNS」に替えればいいだけのことだ。
 このあとに続く、「個人で情報を得る手段に価値が見出せなくなる」や、「得た知識や感想を他人と共有せずにいられなく」の部分は、それは17年後の現在、まったくもってそうなっている。そしてこれが優れた発言なのかどうかに関しては、たぶん2006年当時、そこまで鋭い意見でもなかったんじゃないかな、と思う。そういう兆候は多分にあったはずだから。
 でもその「到来するのだろう未来」に対し、17年という時間をかけて、やんわり、流れに身を任せ、知らず知らずのうちに心を懐柔させて自然と受け入れてきた、17年後の我々には抱きづらい、抱くきっかけが与えてもらえなかった反応を、17年前の僕はしていて、この生理的な反応にこそ、この記述の価値はあるのではないかと思った。
 すなわち、「大きなものに組み込まれてしまうのでは、その人が生きている意味がなくなってしまう」の部分。
 「SNSがはびこる世の中で育つ子ども」は、たぶんこの感覚を持たない。上の世代のわれわれだって、失いかけている。でも17年前、それがなかった時代の人が、空想の力でその情景をイメージしてみたらば、それは悲惨なことだったのだ。現在、われわれはあまりにも集約されている。そして集約されていることに気付きもしない。17年前に較べて、世界に占める個人というものの領分は、格段に小さくなっている。