よくない5月中旬 ~おもひでぶぉろろぉぉん~
もうすぐ夏がやってくることにふと気が付いた女の子の、その気持ちのふわふわとしたドキドキを、一緒にどうやって言葉で表そうかと思案して話し合いたい。どうしてそんなに私の気持ちが分かるんですか、と逆にそのことを疑問にされたい。そんなふうに思う。ああ、女子校教師になりたいなあ。進路について話し合いたい。少女の夢を聴きたい。年賀状欲しい。っていうかもう愛の告白をしよう。具体的なモデルもなく、少女という抽象的な概念に対して告っちまおう。好きだ。ずっと前から好きだった。
というのが121枚目だった。5月13日のこと。絵に描いたような現実逃避。全体的に気持ち悪いが、この中で最も気持ち悪い部分は、実は「年賀状欲しい。」の部分ではないかと思う。肉体的にどうこうということではなく、年賀状を求めるその感じ。絶妙な気持ち悪さだ。
この時期、就職活動がにっちもさっちもいかず、暇を持て余す日々が続いている。図書館では落語の本やCDを毎日のようにせっせと借りているほか、この数日前にはとうとうあの、レゴのような同じ形のパーツを折り紙で無数に折り、それを組み立てることで鶴の形に仕立てるという奇行に僕を走らせた例の本、「ブロック折り紙」を借りてしまっていた。あああ。
読んでいると、本当にこの時期の僕は建設的なことをしていない。手芸も、消しゴムハンコも、まだ僕の人生には登場していない。落語を聴いて、鶴を折って、日記を書いている。ただそれだけの日々。あまりに不健全なので、時間はたっぷりあるのだから、せめて体を動かしたり筋トレをしたりしたらどうだ、と今の僕は無責任に思ったりするけれど、無職の時期こそ、なかなかそういうことをする気にはならないのだということも、一方でもちろん僕は知っている(無職に関しては経験豊富なので理解がある)。
そもそも17年前は、今ほど筋トレというものが一般的ではなかった。なかやまきんに君は完全にイロモノで、ムキムキの筋肉というものは、ちょっと気持ち悪いものというイメージさえあったと思う(しかしこのときからきんに君はまったくブレることなく同じ芸を続け、そして最近になってようやく時代がきんに君に追いついた。そう考えると本当にすごいと思う)。筋トレじゃなくても、お前には水泳という手があったではないか、というのも、今の僕なら発想するのだけど、子どものときスクールに通っていたため唯一の得意スポーツと言ってもいい水泳を、習慣的にするようになるのは、ここから実に10年以上あとのことだ。ちなみに検索をすると、中村橋からだと、中村南スポーツ交流センターという練馬区の施設がほどほどの距離にあった。でもそんな場所のことは、今の今まで知ることもなかった。
なんだか頭にいろいろな思念が浮かんでは消え落ち着かず、なにもできないでいる。すごく嫌な感じだ。ものすごく嫌な感じ。ぼくは一体どうなるのだ? なんにも成り立っていない。どうすれば生活って成り立つのだ? どうすればすべては解決するのか。
頭がどんどん悪い方向へ進んでいる気がする。どうして落ち着けないのだ? このハラハラさは一体なんなのだ。なんでぼくはいろんなことがこんなにもうまくできないんだろう。そしてどうしてこんなにも自意識が強いのか。嫌だ。
よくない感じだな。GWの帰省の際、母親から「お金なら援助するから、くれぐれもおかしな所からは借りないように」という忠告を受けていた。実際、堕ちるとなったらどこまでも堕ちれるような状況であったろう。保てていたのはファルマンの存在があったからに他ならない。もっともファルマンがいなければそもそもこのタイミングでの独立もあり得なかったわけだが、その場合は今も実家で、この手書き日記の4万枚目くらいを書いていた可能性もある。なんなのだろうな、僕は。なんだか切なくなってきたな。
このあと僕は、目先の安寧を求め、逃げと言えば完全に逃げなのだけど、一般的な就職をあきらめ、バイトでいいんじゃないか、という発想を抱き、それをファルマンに打ち明けるのだが、それを聞いたファルマンは「いいと思う」と口では言いながら、ぽろぽろと涙を流す、というとても居た堪れない展開が繰り広げられる。重い。これだから本当に、なかなか読み進められない。
なかなか日付が進まないついでに、同時期のファルマンの日記、すなわち「うわのそら」(現在非公開)を併せて読んだらさらにおもしろいのではないかとも思ったのだけど、これをやりはじめると本当に読み返し作業が終わらなくなると思うので、手は出さないでおく。