紙媒体について ~おもひでぶぉろろぉぉん~

 おもひでぶぉろろぉぉんは2006年に突入した。まだそこだ。2月に、2005年の9月で僕は22歳になった、ということを書いているので、2ヶ月で4ヶ月くらいしか読んでいないということになる。なんだそれ。現実の半分の速度でしかない。これでは20年分を読むのに10年かかる計算になる。ペースを上げなければいけない。
 2006年の1月ということは、大学生としての最後の3ヶ月に入ったということで、卒論を完成させていた。「逆にくだらないジョークとしての漢詩」。懐かしいな。そして就職についての記述は未だにない。それはそうだ。卒業して、大学生じゃなくなっても、とりあえずどこにも就職しなかったのだから。そして折り鶴ばかり折っている。1日に20とか30とか折っている。「正方形の紙を持つと次の瞬間それは鶴になっている」とまで言っていた。もはや一種のゾーンだな。僕の目には紙が鶴に見えていたのかもしれない。
 あと当時のトピックスとして、「non-no」でSEX特集が組まれたそうで、当時の僕はそのことに憤怒していた。しかし今の感覚からすれば、それのどこに怒るポイントがあるのかよく分からない。こういうことって、明治時代とかに書かれた日記なんかを読んで、「当時の人の倫理観的に許せなかったんだなあ」と意外だと感じることはよくあるけれど、この場合、わずか17年前の、それも自分の日記である。それなのに感覚はこうも変わるのか、と思った。
 『「non-no」でSEX特集が組まれたということは、3年後には「SEVENTEEN」で、5年後には「nicola」で堂々とそれについて語られるようになるに違いない』、と当時の僕は予言をしていて、それは外れた。この17年間で、SEXについての話題が、そこまであけっぴろげになった感じはない。むしろジェンダーだの多様性だのの観点から、かつてよりも語られづらくなった気がする。ただ、実際のところは知らない。なぜ知らないかと言えば、「non-no」がなにを特集しているのかなんて、まったく把握していないからだ。
 この話を読んで、「SEX特集に対する感情」以上に感じ入ったのは、「雑誌の特集についてなにかを感じている」という、そのこと自体だ。これは、この当時はまだ、雑誌がメディアだったということを示している。今はそうじゃない。雑誌の特集内容に対し、世間は反応しない。雑誌はもうそういう装置ではない。じゃあなんなのか、と問われると困る。僕は現代の雑誌の役割を知らない。見出していない。
 要するに紙媒体の衰退だ。17年間で、これは急激に進んだ。そのことが、たった17年で、平成と明治くらいの感覚の差を生み出しているひとつの要因だと思う。
 先日、ブックマークしている美少女文庫の公式ページを、気が向いたとき2ヶ月にいちどくらい開き、新刊のラインナップを見てなんとなくその界隈の時流を知る、ということをするので、開こうとしたら、ページが存在しなくなっていた。美少女文庫は、廃止されたのだった。少し前に、二次元ドリーム文庫がほとんど新刊が出なくなっている、ということを書き、でも美少女文庫は大丈夫そうだな、と思っていたのに、案外二次元ドリーム文庫は数ヶ月に1冊のペースながらしぶとく発刊するのに対し、美少女文庫は唐突に潔く消えた。どうやらeブックスという、電子書籍レーベルに集約されたようだ。
 哀しい。「笑っていいとも」や「こち亀」のように、離れていたくせに、終わるとなったら「えー、哀しい、なんで終わっちゃうの」と嘆く輩そのものだけど、哀しい。僕は二次元ドリーム文庫派だけど、でも二次元ドリーム文庫派は、美少女文庫派に対するアンチテーゼとしての二次元ドリーム文庫派みたいな部分もあるので、美少女文庫がなくなってしまうと、二次元ドリーム文庫も色褪せてしまう。色褪せるもなにも、どちらともぜんぜん新刊なんて何年も買っていなかった。当時あんなに買っていたのに、最近は買わないのだから、それはレーベルが終わるに決まっている。「バイク乗りの平均年齢は10年前に較べて10歳も高くなった」というジョークがあるけれど、おそらく紙媒体のエロ小説というのも、そういうことだったんだと思う。当時の10代20代たちが、40歳くらいになって、もう誰も買わなくなっていたんだと思う。哀しい。哀しいけど、どうしようもない。
 これからの17年間分の日記で、今はもう失われた、ネットおよびスマホに集約された、さまざまな遺物を目にすることになる。過去の日記とは、葬列なのかもしれない。