「THE夜もヒッパレ」の復活スペシャルに寄せて
月日が経つのが早すぎて、もう早くもわりと前になってしまうのだけど、「THE夜もヒッパレ」の復活スペシャルみたいなことをやっていた。
最初、「THE夜もヒッパレ」が復活する、という言葉を聞いたときは、てっきりレギュラー番組として復活するのかと思った。ところが実際は一夜限り、しかもそれは単体での番組ではなく、大型歌番組の中の1コーナーであると聞いて、残念だと思った。それでも一応は復活するということで心が躍り、ファルマンに「「THE夜もヒッパレ」が復活するね!」と語りかけたら、「私あの番組、ぜんぜんおもしろいと思わないんだけど」みたいな、とても冷めた反応をされたので衝撃を受けた。「だってあれ、ただのカラオケじゃん」とも。
「THE夜もヒッパレ」は、ただのカラオケと言ってしまえばその通りなのだけど、しかし本当にただのカラオケだったらテレビ番組になるはずがなくて、別に僕だって、毎週欠かさず観ていたわけではないけど、レギュラー放送中(95年~02年まで)はそれなりにチャンネルを合わせ、それなりに愉しみながら観ていたように思う。そもそも90年代後半にやっていて、今はやっていない番組が復活するという、ただそれだけで気持ちが盛り上がるじゃないか、と思ったのだけど、ファルマンの理解を得ることはできなかった。
そして放映日当日、現代の歌が流れる普通の歌番組部分はろくに観ず、「THE夜もヒッパレ」復活スペシャルのコーナーが始まるのに合わせ、視聴を開始した。スタジオはほどほどに当時の様子が再現され、三宅裕司や赤坂泰彦、そしてMAXが画面に現れた。なんてったってMAXである。なにを隠そう、僕はMAXのファンをしていた時期がある。2019年の3月から半年間くらい。レギュラー放映中はぜんぜんMAXに関心がなかったが、いま思えば「THE夜もヒッパレ」こそMAX性の極致というか、MAXとは「THE夜もヒッパレ」であるし、「THE夜もヒッパレ」とはMAXであるという、そういう存在だったんじゃないかと思う。復活するにあたり、中山秀征やマルシアは省き、三宅と赤坂とMAXだけを押さえたところに、その意識を感じる。MAXのいない「THE夜もヒッパレ」は「THE夜もヒッパレ」じゃない、という、これは強いメッセージだ。その証拠として、MINAの妊娠そして脱退があったのが2002年3月で、「THE夜もヒッパレ」の終了が2002年の9月。神様とピッコロである。どちらかが死ねば、もう片方も死ぬのだ。ちなみに、実はMAXのレギュラー出演は1999年で終わっているらしいのだが、たぶんそのあともちょくちょく出ていて、MAXは「THE夜もヒッパレ」に、「THE夜もヒッパレ」はMAXに、それぞれ養分を与え、与えられ、必死で延命していたのだと思う。2000年代とは、たしかそういう時代だったと思う。
MAXの存在に、話が引っ張られてしまった。話の主題はあくまで「THE夜もヒッパレ」である。番組は三宅と赤坂とMAXだけで進行するわけではなく、なにぶん大型歌番組の一部を間借りしてやっているため、そちらの出演者たちも参加する形だった。司会はking&Princeの永瀬廉と上白石萌歌で、king&Princeは永瀬以外のメンバーも普通にスタジオにいた。ちなみに永瀬が23歳、上白石が22歳で、「THE夜もヒッパレ」のレギュラー放送が終了した2002年には3歳と2歳ということになる。歳月。このところの歳月は、あまりにもひとり先走りすぎてはいないだろうか。そのせいでいろいろな辻褄が合わなくなってきている気がする。たまに、僕が学生時代に交流を持った後輩、すなわち若さの象徴は、今もうみんな35歳以上だ、と考えて戦慄することがある。そしてまたMAXの話になってしまうが、MINAの妊娠そして脱退と先ほど言ったが、すなわちMINAの子どもは2002年生まれの現在おそらく19歳であろう。司会のふたりとそう変わらない。さらに言えば、この番組にとってその存在も決して無関係ではないのでMAXついでに触れるが、安室奈美恵の出産は1998年5月のことで、永瀬廉(1999年1月生まれ)とは同学年ということになる。ほうら、辻褄が合わない。破綻が起っているではないか。
なかなか番組そのものの話に入れない。MAXが邪魔ばかりする。番組はかつてと同じように、別にデータでもなんでもない恣意的なランキングに沿い、進行する。毎週ランキング形式で曲目が発表されたが、別にランキング番組ではないので、それについてとやかく言う人などいなかった。今だったら、なまじっか簡単に視聴者の声を集計できてしまうがゆえに、番組サイドの勝手なランキングなどは許されず、推しだのなんだのとすぐにのたまう輩が、組織票を画策し、一般人にとってはとても白けるランキングができあがることだろう。ランキングは20位から始まり、20位はウルフルズの「ガッツだぜ!」で、それを当時Ⅴ6が唄ったVTRが流された。これを聴いて、とても大きな衝撃を受けた。ものすごく下手だったのだ。いや、下手というか、とてつもなく素人っぽかった。それは一般の若者、クラスの中心グループにいる男子(当時はスクールカーストや陽キャなどという言葉はなかった)がカラオケで歌う「ガッツだぜ!」そのもので、それはまさに20年以上前、自分が中学生や高校生だった時代にカラオケボックスで耳にしていたものだったので、タイムスリップしたような気持ちになった。前々から、V6というグループは、SMAPでも嵐でもない、MD世代の象徴のようなグループだと思っていたが、これを聴いてそれが確信に変わった。そして、これを、こんなショボい歌唱を冒頭にぶっ込んでくる「THE夜もヒッパレ」復活スペシャルの、覚悟を感じた。なにぶん番組終了が20年近く前なので、もう国民みんな、精細に当時の空気を覚えているはずがないのだ。僕のように、たしかそれなりにおもしろかったんじゃなかったっけ、と思う人もいれば、ファルマンのように、あれはぜんぜんおもしろくなかったよ、と感じる人もいた。どちらにせよ、その感触はうろ覚えだったはずだ。それがⅤ6の「ガッツだぜ!」で一瞬で再読み込みされ、それぞれの「THE夜もヒッパレ」への印象が新しく上書きされたに違いなかった。僕は、激しい懐かしさ、番組そのものの懐かしさというより、番組が放送されていた当時の中高生時代の自分の懐かしさに浸ることができたので、それだけでこの復活番組には価値があると思った。ちなみにファルマンは放送を観もしなかった。当時から観ていなかったのなら、当時のVTRを観て想起される事柄もあるまい。ならば観てもしょうがないだろう。観てもしょうがない。それは本当にそうだ。ティーン時代の愛しい自分に久しぶりに出会えたことを除けば、この番組はたしかに本当にぜんぜんおもしろくないのだった。なにしろMAXが幅を利かせるような番組である。おもしろいはずがないではないか(僕のMAXへの感情は複雑すぎて自分でもよく分からなくなってきた)。
興味深かったのは、過去のVTRや、現代ver.として今回新しく作られたものなど、新旧織り交ぜてランキングが進行し、曲を紹介する前には定番の寸劇みたいなこともなされ、「THE夜もヒッパレ」が「THE夜もヒッパレ」らしく繰り広げられるのを、king&Princeや上白石萌歌が、明らかにそのあまりのつまらなさに困惑した様子だった点で、つまらないのはもちろんびっくりするくらいつまらないのだが、ただつまらないと感じているのではなく、たぶん彼ら若者たちは、そのあまりのつまらなさが、信じられなかったのだろうと思った。かつてブイブイ言わせていたという番組の、満を持しての復活特番で、蓋を開けてみたらこんなにもつまらないなんてこと、果たしてあるだろうか? という疑念が、彼らの頭には浮かんでいたのではないかと思う。それくらい、彼らに「THE夜もヒッパレ」のおもしろさは理解できなかったに違いなかった。実際は、おもしろさを理解できるもなにも、おもしろくないのだ。おもしろくないけど復活し、そしてそのおもしろくなさが旧世代に訴求する部分があるのだ、などと説明しても、おそらく20歳すぎの彼らにはチンプンカンプンだろう。しかしこの、三宅裕司と赤坂泰彦とMAXしか愉しくなくて、自分たちの心はどこまでも凪いでいる、などという地獄のような状況に対し、放送当時の若者、それこそⅤ6とかであれば、森田や三宅などは、露骨に「この番組マジつまんねえな」的な雰囲気を出したことだろうと思うが、現代の若者は本当に穏和なので、ただ困惑していた。三宅裕司と赤坂泰彦の寸劇に、台本通りに参加して、クソほどつまらない、なのにMAXだけが爆笑するという、この地獄は、もしかして自分のノリが悪いからだろうか? 自分の間合いとかが盛り上がりを台無しにしてしまっているのだろうか? などと自省さえしているように見えた。違うんだよ、と教えてやりたかった。君たちのせいなんかじゃないよ。不安にならなくていいんだよ。誰がやってもそれはおもしろくならないんだよ、と。
そんなふうに感情を揺さぶられ、いろいろな意味で実りある視聴となったが、雰囲気を味わっただけで目的は果たされたという確信があったし、番組内容そのものは、本当にあまりにもつまらなかったので、耐えきれずに途中で観るのをやめた。ファルマンは「ただのカラオケ」と言い、たしかにⅤ6の歌唱にはそれを感じたが、あれもオッサンに連れられて来た若者が1曲唄ったもの、として捉えるならば、あの番組はカラオケボックスというよりも、ショーパブやスナックのほうが近いのだと思った。ショーパブやスナックというものは、50代以上の人間は自ら進んで行き、30代と40代はそれらに誘われれば仕方なくついていって、それでもそれなりに順応して愉しんだりするが、20代になるといよいよ情趣が理解できなさ過ぎてひたすら困惑する、というものだろう。まさにそれだ。
そして素人(もちろん「THE夜もヒッパレ」で唄うのは芸能人なのだが、Ⅴ6などのように、歌で勝負している人ではない人という意味で)の歌唱ということで連想するのが、ネット上の「歌い手」などという小ざかしい肩書の歌唱者たちだ。ネットに投稿することで、誰でも自分の歌を世界に発信できる、などという惹句で展開されている世界だが、誰でもと言いつつ、元々の歌唱力なり、あるいは編集力なり、テクニックを持った人間のそれしか評価されない世界であり、逆に万人に機会が与えられている分だけ、結果がシビアに響くのではないかということを思うが、それに対し、Ⅴ6の「ガッツだぜ!」に、MAXがキャーキャー言う世界というのは、実はとても優しいのではないかということも思う。別に、今は荒廃している、昔はよかった、ということを言いたいのではない。いや、ちょっと言いたいのかもしれない。先日、Mr.Childrenの桜井氏が、サブスクなどに触れ、自分たちが世に出た時代に較べて現代は音楽の価値が下がった、みたいなことを言っていたが、商業的価値という意味では、2曲(しかも2曲目はどうでもいい曲)とそれのオリジナルカラオケver.だけの8cmシングルCDが1000円して、しかもそれが何十万枚と売れた時代と今では、たしかにぜんぜん違うんだろうと思う。でもそれは今が衰退したというより、昔が異常だったのだ。なんせMAXの「Give me a Shake」が50万枚近く売れたのだ。おかしな世界である。現代のサブスク音楽を、前奏を飛ばしたり、中盤のギターソロを飛ばしたりして、ひたすら次々に聴くのもまた異常だろうとも思うが、MAXのアルバム「MAXIMUM」が128万枚売れたのは、やっぱり狂っていると思う。経済的なバブルは当時すでに崩壊し、MD世代はそこで10代から30代までの人格形成にとって最も大事だろう時期を過ごした、失われた20年に突入していたが、音楽業界はあのときがまさにバブルだったろう。そしてバブルであればこそ、「THE夜もヒッパレ」の、あの景気のいいショーパブ的な番組は成立したのだろうとも思う。頂が高かったから、裾野も広かった。だからあんな番組が許された。今はそうじゃないのだ。保毛尾田保毛男は許されないのだ。炎上するのだ。炎上されないように生きる永瀬と上白石の困惑顔を眺め、つらつらとそんなことを思った、「THE夜もヒッパレ」の復活スペシャルだった。