後悔が先に立った日

 後悔先に立たず、という言葉があって、そんなの当たり前だ、先に悔めたらそうならないよう回避するのだから、後悔をするということはそれが先には立たなかったということだ、とこれまで考えていた。しかしそうではなかった。浅はかだった。先に立つ後悔も、実はあった。後悔することが分かりながらも、どうしてもそれが回避できないことだってあるのだ。
 飛行機に乗ることになった。
 2020年の正月から一家で帰れていない実家に、今年のGWこそはさすがに行こうということになり、どうやって行くかを、ファルマンとずっと議論してきた。
 はじめは車で行こうとしていた。軽自動車でなくなり、ファルマンが免許を取り、子どももそこまで小さくなくなったので、できるんじゃないかという空気がじわじわ醸成されつつあった。横浜までは10時間あまり掛かるようだが、大型連休ならば往復にそれぞれ半日から1日を見れば、案外のんびり悠々と行けるのではないかと思った。なにぶん安上がりだ。たぶんこれがいちばん費用的に安い。自分で運転するのだから当然だ。さらに、コロナウイルス対策として、公共の乗り物に乗らなくて済む、というメリットがあったのだが、それをメリットとするのは、なんかさすがにもういいかな、とも思う。昨年末にこの方法での帰省を目論んだ際は、それがきちんとメリットとして成立していた(でも雪道が怖くて頓挫した)。
 しかし蓋を開けてみると今年のGWは、前半の3連休と後半の3連休とそのあとの土日の間に、会社も学校もどうしても休みにならない平日がそれぞれ挟まっているため、1日かけての移動なんてことは不可能なのだった。さらには、先日広島旅行をしたのだが、その際の2時間程度の車移動でも、子どもたち(主にピイガ)は大いにダレて往生したため、睡眠時間とぶつけるつもりとはいえ、10時間はやはりまだ厳しそうだと思った。
 かくして車という選択肢がなくなり、次に考えたのが、岡山まで車で行って、そこから新幹線という方法である。島根から岡山へは、やくもという特急列車があるのだが、これに乗るという発想はまるでなかった。もともと全般を車で行くつもりだったからだろうか。それを妥協した形として、新幹線の世話にだけはなってやる、という気持ちだったのかもしれない。僕の中では、ほとんどこの方法で決まりかけていた。岡山までの道は慣れたものだし、岡山に着いたらそこから先は、岡山県民だった時代の帰省と一緒である。全編自家用車を夢見たが、このあたりが落としどころとして妥当だろうと思った。唯一の懸念材料としては、岡山駅周辺で足掛け3日停めておく駐車場を探さねばならず、そしてそれってけっこう代金が嵩みそうだな、ということだった。
 そんな折、ファルマンがインターネットを駆使し、早割で予約をすれば、新幹線の値段も飛行機の値段もそう変わらない、という事実を発見する。そのときはまだ、GWに対しての早割の期限の前で、検索するとちょうど都合のいい便に空席があった。それなら飛行機、ありなんじゃないか、と一気に話が動いた。飛行機はとにかく高いだろうという先入観があったし、なにより恐怖感から忌避する気持ちがあった。島根時代は飛行機を利用せざるを得なかったが、そこから岡山に引っ越して、飛行機を使う必要がなくなったのがすごく嬉しかったことを覚えている。しかしいまわが家は、島根県在住なのだった。そうだった、島根県民は、飛行機を使うのだった。これで料金がべらぼうに違ったら否定の材料になるのだが、そこがそんなに変わらないということになると、どう考えても飛行機のほうが優れている。岡山まで車で3時間。岡山駅周辺でどこかしらの駐車場に停めて、駅まで荷物を持って歩く。3時間と書いたが、岡山駅周辺で道も駐車もスムーズに行くとは限らず、そこへ新幹線の発車時刻などの要素も入ってきて、さらには怒りっぽい妻とふたりの子どもを連れているのである。考えただけでその大変さに辟易する。そこから無事に新幹線に乗れたとして、新横浜まで3時間である。それに対して飛行機は、車で空港まで行って(30分あまり)空港には駐車券のない巨大駐車場があり、飛行機で1時間半で羽田である。羽田からはたまプラーザ行きの直行バスが出ているのではなかったか。
 それじゃあ、もう、絶対に飛行機じゃん。飛行機のデメリットは、落ちたら死ぬという、たったそれだけだ。そして飛行機はたぶん落ちない。落ちないだろうが、怖いものは怖い。僕は離陸の瞬間、飛行機が飛び立つために猛スピードを出すあの瞬間に、絶対に後悔する。どうして飛行機に乗ることにしてしまったんだろう、と。この後悔は、世にも珍しく、先に立った。先に立ったが、上記の理由によりどうしたって飛行機なのだ。世の中にはそういう場面もあるのだ。
 落ちたら死ぬが、ひとりで死ぬとか、両親だけ死ぬとかじゃなく、一家で死ぬのだから、その点はいいかな、と思う。これはまるで無理心中をする人間の発想だが、極限まで追いつめられると、なるほど人はそういう発想になるのかもしれない。いや、いざとなれば子どもだけでも生きてほしいとはもちろん思うけれども、思ったところで飛行機ではどうしようもなく、あの世でも一家で仲良く暮らしたいと思う。いまどき飛行機、それも国内線に乗る程度のことでなにを言っているんだろうね。そうは思うんだけどね。でもね。